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7月19日

 放置しっぱなしはいけないと思ってロードスターのエンジンをかける。キーをひねって一発始動。ほこりまみれでとてもこぎたくなってまるで不動車のようだが、まったく問題なく動くようだ。

 Dジェトロだと、なんの調整もなくちゃんと動く。たぶん、スロポジ制御だと、いろいろ狂ってアイドルも不調になったに違いない。一度、セッティングを出せば季節が変わろうが問題のないDジェだが、バルブタイミングを変えると、まったくセッティングが狂う(特にスロットルの開け始め)のが玉にきず。標高の変化が苦手なのも問題がある。できたら単純なスロポジ制御で行きたいのだが、スロポジの出力が安定しないのでDジェにしてある。

 そろそろ車検を通そうかしら、と思うが、月々のお小遣いが3万円。浪費を尽くした上で所帯を持ったので、車検代を家計から出してもらうのはなかなか心苦しい。

7月18日

 仲間とともに他愛のない話をして時間をすごす。この贅沢さ。

 朝起きて、のんびりと朝ご飯を食べ、コーヒーを飲みながら、今日はどこに行くか相談する。いつもの朝は、ぎりぎりまで寝ていて、ハッと飛び起き、あわてて朝ご飯を食べてあれこれ準備して家を飛び出す、ということを繰り返しているので、こんな朝はとても貴重である。

 ペンションを離れ、向かったのは名水公園。砂防ダムを工夫してつくってある水辺で正しく遊んで過ごした。ちょうど梅雨明けして、初夏特有の気持ちよい太陽光線の下ではしゃぎまくる。

 昼ご飯は昔の病院を改装したそば屋で。移動は開幌で、と行きたいところだが、あいにく車はデミオである。細いタイヤを最大限使わないと、付いて行けない。

 揚げナスのそばを頼んだら、カボチャやニンジンなどなど野菜たっぷりで出てきた。こんなうまいそばはなかなかない。

 そこで仲間と別れて、せっかくだから清里に寄った。ごみごみした街はきらいだから素通りし、展望台に上って景色を眺める。

 野辺山に寄って、一面に広がるレタスの絨毯を見たかったのだが、さすがにそこまで足を伸ばすと帰りが遅くなるので八ケ岳道路で小淵沢方面に行き、富士見、茅野と抜け、国道152号で高遠、長谷と走って駒ヶ根へ。こんな贅沢な道をデミオで走るのがもったいない。

 高速に乗っても込んでいそうなので、そのまま天竜川の東側の細い道を駆け抜けて飯田に至る。飯田インターで入ろうとしたら、瑞浪のあたりで渋滞しているという情報だったので、高速はあきらめて国道153号をひた走る。

 愛知県に入ったと思ったら、すぐ豊田市だったので面食らった。合併で稲武町までが豊田市になっちゃったのだ。それほど込んでなく、良いペースで走り抜き、香嵐渓へ行く手前で脇道にそれ、なかなか面白いワインディングをかっ飛ばす。愛知万博の会場の裏を抜け、国道155号で春日井、小牧を抜け、江南へ。清里を出たのが午後3時ぐらいで、江南に着いたのが8時半ぐらい。渋滞で1時間いらいらすることを考えれば、下道で正解だった。

7月16日

 109歳のおばあちゃんを見た。生まれたのが、明治28年。西暦で言えば1895年。日清戦争のころに生まれたというすごい人なのだ。

 たとえば、終戦のころに50歳で中年だったのだからすごい。あ、もしかして、このおばあさんの場合、「終戦」は日露戦争が終わった1905年を意味するかもしれない。

 なにしろ、愛知県で2番目の長寿なのだ。もっとすごいのが、まだ歩いて散歩するのが日課だということ! この年齢で外を歩ける、ということ自体、奇跡のような気がする。飯も3食きちんと食べているようだから、体力はまだまだある。そのうち、県内1番に躍り出ること請け合いである。いや、国内最長老も夢ではないかもしれない。

 ふと、考えたのだが、自分より先に生まれた人がいない、というのはどんな気持ちなんだろう。僕は、絶対にそんな立場になることはないのだが、想像すると、とても恐ろしい立場だという気がするのは僕だけだろうか。

7月15日

 デミオのボディーがあちこち傷ついたから、直すことにした。7万5千円で買った車なので、板金屋さんに持っていくのもばかばかしい。パテと紙ヤスリと塗料で何とかするのだ。

 あちこちのオートバックスやらイエローハットやらを探したのだが、デミオの色に合う塗料がない。前期型のブルーメタリックなのだが、RX7の色にもなった後期型のブルメタしかない。仕方がないから、イタリア村にいったときに、スーパーオートバックスに寄ってホルツの塗料を混ぜてもらった。2600円ぐらい。高い。

 バンパーやドアの傷をやすりで削り、パテを埋める。時間がまとまって取れないから、とりあえずそのまま放置。さすがに、青色のボディーに灰色のパテが付いていると、目立つ目立つ。ポンコツ度がかなり増してしまうのだが、ま、10万キロオーバーの本当にポンコツに近い車になりつつあるのだから、あまり気にしない。

 なかなか時間が取れないので、そんな状態で1カ月ぐらい走っていた。さすがに直したくなってきたので、ちょっとした時間を見てがりがりとパテを削って下地を作り、一気にスプレーで塗る。色はばっちり合っているのだが、へたくそがいい加減にやるものだから、かなりアレな出来映えである。

 場所によっては塗料がたれたりざらざらになったりしたので、何度もやり直した。ぱっと見は分からなくなったが、よく見るとムラがあったり光沢がなかったりと、やはり分かってしまう。素人の限界か。

7月13日

 60年前の今日、江南の空から爆弾が落っこちてきた。当時は、古知野町と布袋町であるのだが。

 米軍の作戦資料によれば、全国有数の軍需工場があった一宮を狙った空襲だったという。サイパン島の飛行場を飛び立ったB29の118機が、琵琶湖を経由して目標だった一宮市街地上空に到達した。しかし、当日は大雨が降る悪天候。当時のレーダーは地形を詳しく読みとれる能力もなく、目標を少し外してしまった。結果、それほど軍事的な意味もない江南に焼夷爆弾が降り注いだのである。

 その空襲の名残がいまも残っている。宮後という町に安楽寺というお寺があるのだが、その門も近くに焼夷爆弾が落ちて炸裂し、中の油脂が飛び散って燃え、門が焼けかかった。なんとか消し止めたようだが、いまも、焦げた跡が残っており、消し炭のようなものだから60年たっても朽ちることなく、まるで昨日焼けたかのような生々しさで残っている。

 寺の近くに住んでいた人は、家の中に爆弾が飛び込んできたという。カシャーンという音がして雨が降り込んできたので何かが落ちてきたことは分かった。翌日、明るくなってから見ると、焼夷爆弾が屋根を突き抜けて落ち、土壁を崩してその中に埋まったのだと分かった。爆弾からは油脂がしみ出していたものの、埋まったものだから火が出なかったので、火災にはならなかったという。油脂のにおいがツンと鼻を突く中、備中鍬でつついて家の外に出したと、その人は笑いながら話すのだが、ちょっとずれていたら直撃を受けていたのだから、空恐ろしい話である。

 めくら爆撃だったので、被害甚大というわけではなかったのだが、そのことがかえって被害に遭った人たちを孤立させたようだ。焼け出された人たちは戦後、大変な苦労をしたという。そんなことを知っている人はもうほとんど残っていない。僕ら、新しい世代はこういう経験を十分に受け継いでいるのだろうか。

7月12日

 がんばっている人に会うと、こっちも力をもらえる気がする。パワフルに生きていている若者にあった。

 某私立高校の野球部員2年生。甲子園に向けて殺気立つチームの中にとけ込んで練習しているのだが、なんと女の子なのだ。ソフトボールではなくて野球である。軟式ではなくれっきとした硬球である。身長が168センチあり、髪も短く刈り込んでいるから、ぱっと見では女の子とはまったく分からない。

 聞くと、小学生のころから男に交じって一人、野球をやってきたという。中学の部活でも野球を選んだ。熱意を買って入部させ、同じように練習させた監督にも拍手を送りたい。

 が、高校野球は一つ問題がある。規定では男しか公式戦に出られない。それでも良いからと野球をやっている。練習試合しか出られないが、代打で10打数2安打というからなかなかのものだ。

 この夏の大会では、試合には出られないから、マネージャーとしてベンチ入りするのだという。マネージャーは学校の制服姿が一般的。普段、同じようなユニフォームを着ているのに、公式戦になったらスカートの制服姿になるギャップもなかなか面白い。んが、そんじょそこらのマネージャと違い、野球を知り尽くしたアドバイスができるのは、チームにとってはありがたいに違いない。

 さすがに体力差も感じる中、男に交じってなぜしんどい練習を続けているのか。「ただ野球をするのが好きだから」とあっさり答える。実際、ボール拾いをするときも、バッティング練習するときも、楽しくて仕方がない、という笑顔をたたえている。きわめて純粋な思いに、ただ感動するしかない。

 僕も、ただ走っていれば面白い時期があった。んが、ただ走ることもいろんな意味での実力が伴わなくてなかなかできなくなっちゃった。一つのことに打ち込んでいる姿がちょっとうらやましかった。

7月11日

 布袋のまちづくりに取り組んでいる人が防犯マップを作ったというので会いに行く。

 駅前の商店街が廃れ「このままではいけない」と立ち上がった人たちである。江南の場合、今現在は古知野(名鉄江南駅前)よりも布袋の方がこうした人たちがいて元気が良い。古知野もしばらく前はいろいろなチャレンジがあったようだけれど、今はあまり動いているようなことは聞かない。疲れちゃったのかもしれない。せっかくの商店街の街並みが、シャッターを開けることもなく取り壊されてマンションになるかもしれない。それだけが心配だ。

 布袋はまだ動きがあるだけ救いがある。まちづくりの情報を伝える手書きの「かわらばん」を作っているし、お祭りもなんとか盛り上げようと四苦八苦している。それを助けるスポンサーもいたりして、これからの動き、盛り上がりに期待しているのである。

 防犯マップ自体は小中学校から不審者が出た場所を聞いてそれを手書きの地図に書いた簡単なものだ。たぶん、多くの人が「なあんだ」と思う程度のものかもしれない。が、それを手間をかけて作って配り「一緒に子どもを見守りましょう」と呼び掛けること。その声掛けがこれからの時代大切なのである。

7月9日

 各地でこの時期やっている「茅の輪くぐり」という行事を見に、祖父江町のとある神社に行くことになった。

 神社は、だいたいが昔からの集落の一角にあったりして、分かりづらい場所にあるのだが、だいたいの場所さえ分かれば、迷うことなくたどり着くことができる。こんもりと背の高い木が立ち並んでいる場所がだいたい神社か寺だ。田園地帯なら、田んぼの中に浮かぶ島のような感じなので、車で走っていればすぐ見当が付く。

 そこも古い集落の中の神社。近くに行くと、氏子の人たちが家族で歩いて神社に向かっていた。浴衣姿の人もいてすっかり夏の風情である。近くに車を止め、歩いて境内に入る。入り口に、たこ焼きやイカ焼きやおもちゃや綿菓子を売る屋台が立ち並んで正しい夏まつりの雰囲気であった。

 ちょうど、日が暮れかかっていたときで、周囲の森は徐々に暗くなっていき、木々の間から見える空もだんだんと灰色が濃くなり、それとともに提灯が明るさを増してきた。そんな境内を浴衣姿で葦を手にした家族連れが最低限の明かりを頼りに境内を進み、直径2.5メートルほどの茅でできた輪をまずくぐって左に回り込み、8の字を描くように3回回って境内に参拝していた。

 葦には人の形をした紙が付けられていて、その紙に名前を書いて、体中をこするようにして汚れを払うのだという。それを神社に納めてこの夏の無病息災を願うのだ。

 社務所では氏子の代表の人たちが、畳の上で簡単な食事を取っていた。部屋に漂う蚊取り線香のにおい。

 まさしくそこには日本の夏があった。

7月8日

 防犯活動、というのが活発になってきているようである。夕方に街を走っていると、黄色い帽子に蛍光のたすきを着けて、歩いている集団を見ることがある。岩倉では、何十人と夜に集まって、拍子木を打ち鳴らして街を見回っているところもある。市役所の車が何台か、白黒に塗られて青色回転灯を着けて走っていることもあれば、「パトロール中」と書かれたマグネットを付けて走り回っている車、自転車のかごに同じように「パトロール中」と書かれた看板を付けて走っている自転車もある。

 こういう地道な活動はやっぱり効果があって、活発になりだしたここ1年ほどは街頭犯罪が減っているらしい。さらに、こうした活動が新しい地域のつながりを生み出していき、崩壊しつつある地域コミュニティーを復活させる契機となる可能性もあって、好ましいな、と思う半面、日本もこうして常に警戒していなくちゃならない社会になりつつあることを思うと、なんだか複雑な気分になるのである。