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11月10日

 火曜日に高校時代の友人から「名古屋に引っ越してきた。飲むぞ」とメールが入る。こういうのは「またいつか」などと先延ばしにすると、忙しさにかまけて1年以上も会わない、ということになっちゃうから、もっとも早く時間がつくれる今日、名古屋駅で飲むことに決めた。メールは便利だ。

 駅前はすでにクリスマスのイルミネーションが点灯していた。おねえさま、と一緒に歩いているならば、「まあ、きれい」などとつぶやきながら、立ち止まってしばらくきらめく電飾を眺めるのであろうが、むさ苦しい男2人組みである。「ああ、さぶい」と一瞥をくれただけでネオンを目指す。

 感じの良いお店で感じの良いおつまみを食べながら近況について話す。昔は白木屋みたいな安居酒屋でめちゃくちゃに飲んだ仲だが、グレードアップした店を選ぶようになったのはちょっと大人になったということだろうか。んが、めちゃくちゃに飲むのは昔と変わらず、それもビールだけ飲んでいれば良いものを、感じの良い焼酎なんかをかぱかぱと何杯も何杯も飲んじゃったものだから、支払いもグレードアップ。一方で、お小遣いは月3万円になっているのだから、明らかにやりすぎで、請求書を見て青ざめる結果となった。

 少し酔いが覚めたが、もちろん次の店に行く。2次会、3次会と行き、終電間際まで粘って飲みまくった。

 今月は緊縮財政が決定的だが、たまにはこんなことがあっても良い。

11月9日

 保育園で今はやりの食育をやっている場面を見た。タンパク質と炭水化物、野菜をバランス良く食べなければならない。それを、食品を色分けしたり、体を機関車に見立てて、3つがそろってようやく走ることができると例えたりして、栄養士がうまいこと子どもに分かるように説明していた。

 で、子どもたちを5人ぐらいのグループに分けて、どんな朝ご飯を食べたいかを考えさせる時間に。さすがに子どもにはちょっと難しい作業だが、中にはきちんと話し合う子どももいて、感心する。

 考えた結果をみなに発表し、バランスの良い朝ご飯を食べることが大切となんとなく分からせるのが目的。子どもがどこまで理解できるのかは分からないが、家庭で親に向かって「野菜も食べなきゃいけないんだよ」とでも言えば大成功なんだろう。

 で、終わった後の雑談で、なぜ朝ご飯に焦点が当たっているのか、その背景を保母さんに聞いた。保母さん曰く「朝ご飯に菓子パンでも食べさせてもらっていればまだ良い方。牛乳をかけないコーンフレークを食べたりとか、親と一緒に食べてこない子どももいるんです」。朝ご飯抜きで来ている子どもは、お昼ご飯の食べ方で分かるという。「がつがつと食らいつくように食べるんです」。その様を想像しただけで、心が痛む。

 きっちり食べている子どもと食べていない子ども。入園から半年もたつと、成長の具合で差が出て来るという。将来はかなりの差になることは想像に難くない。

 本当に必要なのは子どもの食育ではなく、親への教育なのだ。「私たちは子どもを通じてしか、働きかけることができないんです」というため息交じりの栄養士の言葉がむなしく響いた。

11月8日

 100年前の人の人捜しは難航を極めた。が、今日あった出会いは、100年前の人との「縁」を感じざるを得ない。

 江南市の小学校から、日露戦争に従軍した人が戦地からふるさとに向けて送った手紙がわんさか発見された。学校の近所に住む床屋さんが、小学校時代の担任の先生の髪を切っているとき「学校のどこかに、大切な手紙が保管されているはず」と聞いた。たまたまPTAの副会長をしていたから校長先生に手紙があるかどうかを探すようお願いすると、図工準備室の片隅に掛け軸のように表装された手紙がまとめて置かれているのが見つかった。

 墨書でなかなか達筆な字が多い。達筆すぎて僕にはなかなか読めない。歴史好きの床屋さんが、親類のおじいさんに頼んで手紙を読んでもらい、活字に起こした。間違いがないかを郷土史の研究家に校正してもらう徹底ぶりである。こうして、どんなことが書いてあるのかが分かるようになった。

 内容から察するに、当時は、各村ごとに「尚武会」という軍隊の後援組織があって、慰問のために品物やお金、手紙を送っていたらしい。手紙はそのお礼に書かれたものがほとんど。

 ご無沙汰をわびて、元気で暮らしていることとお礼を簡単にしたためた手紙が多い中で、3通だけ戦地での体験を生々しく書いた手紙があった。ぜひ、書いた人の家族を捜して、見せてあげたいと思った。

 名前を元に地元のお年寄りなどをいろいろ当たってみるが、なにせ100年前の人だから「おばあさんが生きていたらどこの人か分かっただろうな」といった返事ばかり。なかなからちがあかない。が、粘り強く捜し続けて、次々と判明していった。

 「旅順の太平洋艦隊を撃退後、久しく敵の姿を見ていないから、バルチック艦隊がやってくるのを楽しみに待っている」という勇ましい内容の手紙の主は、偶然、床屋さんの隣の家に住んでいる人のお父さんだということが分かった。娘さん(といっても80近いが)もお父さんの筆跡を覚えていて、手紙を見せたらすぐに分かったそうである。戦艦朝日に乗って日本海海戦で戦い、無事に帰ってきている。

 「冬の夜に見張りをしていると、寒くて日付が変わるころには体の感覚がなくなり自分の体ではないみたいになってしまう。朝、交代の人が来たから、喜んで勢いよく立ち上がったら、外套が凍って地面に張り付いていたため、破いてしまったこともある」「砲弾は大きなものは二升壷ぐらいあって、飛んでくると付近は十間(18メートルぐらい)四方が荒れ地になる。そんなものが直撃すると、腸が飛び出るやら、体はばらばらになってしまう」と、過酷な冬と戦場の恐ろしさを書いた手紙の主は、地元の議員さんに聞いたらすぐ判明。孫に会うことができた。孫といっても70代だが。晩年楽しんだ俳句をつづった冊子を持ってきてくれて、照らし合わせるとやっぱり筆跡が一致した。

 2つは順調に見つかったのだが、最後の1通はなかなかどこの人か分からなかった。「戦闘中の死傷者の血液の流れ込んだ池の水で米を炊いて食べている」「清国はことし豊作だけども、日露事件で作物はめちゃめちゃになり、家屋が崩れたところもあり現地の人も困っている」と、長文の生々しい内容だから、ぜひとも縁者の人を捜し当てて話を聞きたい。が、地域にもっとも多くいる名字だったから、捜しようがなかった。

 今日、床屋さんから電話があった。聞くと、お墓にいるという。戦没者をまつった一角にある墓石に、その手紙の人の名前が書いてあるという。手紙を書いた後、戦死していたのだ。

 すぐにそのお墓に行き、床屋さんと一緒に墓石に刻まれた字を読んでみる。明治38年3月に亡くなったことが分かる。手紙を書いたのが明治37年11月だから書いてから4カ月後に亡くなったのだ。時期から考えると、日本側25万人、ロシア側29万2300人が激突し、日本側で7万人、ロシア側9万人もの死傷者を出した奉天の会戦で亡くなったんだろう。

 そうか、あの手紙の人は戦争で亡くなっていたんだ、と感慨深く床屋さんと話をしていたら、知らないおじさんが「そのお墓に何か用ですか?」と声をかけてきた。聞けば、このお墓を守っている家の人で、通りかかったら怪しげな男2人がお墓に食いつくようにしているので、けげんに思ってわざわざ車を止めて、声をかけたのだという。理由を説明すると、本家の長男に電話をしてくれた。やってきた長男曰く「どんな縁がある人か知らないが、調べてみよう」。お墓の人の手紙が見つかったことを喜んでくれた。

 聞けば、おじさんがお墓の横を通りかかったのも、たまたまやっていた道路工事を迂回したためだという。100年前の手紙が、図工準備室から見つかったこと自体が、ほとんど奇跡だったのに、ここまで偶然が重なると、「たまたま」というよりは、もはや「縁」を感じる。手紙を書いた人たちが、内容を世に広く知らしめてくれ、とお墓の中から訴えているのかもしれない。

 見ると、お墓に供えられた花が枯れて長い間放置されているようだったので、これまた偶然にも曼陀羅寺の菊まつりでもらって車に積んであった菊の花束をたむけておいた。

11月7日

 夕方、暗くなりかけたころ、新型ロードスターが走っているのを初めて見た。白いボディのフロントフェイスは精悍な印象だが、なぜかボディサイズがかなり大きく見えた。オープンにして乗っていたのは、初老の男性で、かぶっている帽子も様になっていて、自分なりのライフスタイルを実践して生きている感じが伝わってきて、かなり格好良かった。

 確かに、新型のロードスターのコンセプトを見てみると、子育ても終わってちょっと自分にご褒美をあげたい裕福な層を狙っている気がする。これまでNA、NBロードスターに乗っていた人からすると、ちょっと刺激が薄くなり、その代わり安定感と扱いやすさ、高級感、快適さがプラスされた。値段も少々アップ。

 ちょっと話はそれるが、webCGのとある小沢コージのエッセイ(僕は好きだ)に載っていた、ラクティスの開発者へのインタビューを読んで愕然とした。一世を風靡したファンカーゴの後継ではないか、という質問に対して「基本的に後継ではなく、まったく新しいコンセプトの車である」の回答したあたりの下りである。

 「時代が変わってしまったんですよね。ファンカーゴが出た時は、8〜9割が1.3リッターのローグレードをお求めになって、セカンドカー的に使われていたんですが、最近は経済状況が変わり、遊びも増えて、ファーストカー的に使う人が増えてきた。奥さんだけでなく、ダンナさんもこれ一台というケースが増えてるんです。

時代が変わってしまったんですよね。ファンカーゴが出た時は、8〜9割が1.3リッターのローグレードをお求めになって、セカンドカー的に使われていたんですが、最近は経済状況が変わり、遊びも増えて、ファーストカー的に使う人が増えてきた。奥さんだけでなく、ダンナさんもこれ一台というケースが増えてるんです。

 大メーカーが綿密なマーケティングをした結果、大衆は2台車を持つ経済的な余裕がない、という判断を下したのである。狂いきって矯正中の僕の経済観念ではあまり実感がないが、周りを見回すと、確かに同年代の人たちは車にそこまでお金をかける余裕がないのかもしれない。大きなステータスシンボルの車に使い勝手の良い小さな車という時代から、小さすぎることはなく恥ずかしくない程度にちょっと高級な1台という時代に変わってしまった。半面、スーパーカーのような車の市場は広がっているのだから、富めるものとそうでないものとの差が広がりつつあるんだろう。

 ロードスターという車もこうした社会状況とは無縁ではいられない。フルモデルチェンジでメーンターゲットに狙った層は、もう少しアッパー寄りになっちゃったんじゃなかろうか。

11月6日

 お昼にある人たちと約束があったので、菊まつりが開かれている曼陀羅寺へ。庫裏で名物のたけのこご飯をいただいて、「仕事があるから」とすぐ抜けるつもりだったのだが、「車で移動する」という。ちょっと離れたお店に席が設けてあったのだ。

 「今日は仕事なので…」などと断ろうものなら、翌日には江南市中に悪名がとどろいてしまうような面々であったので、おとなしく従う。ちょこっと仕事だけ片付けに抜けさせてもらって、あとは腹を決めて勧められるままに酒を飲む。真昼間から、しかも営業時間中に飲む酒はなんだかちょっと後ろ暗い。んが、「これも仕事です」と強弁できるところが僕の仕事のやくざなところである。

11月5日

 ロードスターを運転している夢を連続して見た。今日の夢の中ではなぜか、通っていた小学校の近くの坂道を全速力で爽快に上っていくところだった。ところが、エンジンが6000回転ぐらいまでで頭打ちになり、「ノーマルマフラーじゃ吹けないな」などと考えながらシフトアップしていた気がするから、なんだか妙にリアルな夢だ。

 どうも、またロードスターに乗りたい虫がうずうずしてきたようである。

 んが、乗るには車検を通さないといけない。なんとなく気ぜわしくて時間がなかなかとれないし、なにより先立つものがない。

 そして近づいているのが任意保険の支払期日だ。乗れない車にお金だけ取られ続けるのはばかばかしい。とりあえず、一時抹消するのか車検を通すのか、選択を迫られている。

10月27日

 デミオはオートマ。ロードスターは車検切れ。だから、もうかなりの期間、マニュアルを運転していない。たぶん、もうクラッチのつなぎ方を忘れた。

 必然的に左足が暇になる。まったく動かさない。もともと左利きだから、あまり暇だとうずうずしてくる。

 じゃ、有効に使いましょう、と左足でブレーキを踏んでみる。カートでも左足でブレーキをかけるのだから、難しいことはない。クラッチで使っていた足なので、強いブレーキを踏んで勢いよく曲がり角にさしかかると、シフトダウンしたくなるのはご愛敬。デミオのかっくんブレーキにもすぐなれて、日常運転ではすぐに問題なく踏めるようになった。

 んが、前の車の予測しないブレーキであわてて急ブレーキを踏んだとき、パニックってブレーキを踏んでいる左足を右足で踏んでしまった。

 やっぱり日常で左足でブレーキを踏んでいると、危ないかしら。

10月20日

 来月から仕事場から人が1人減ることになった。万博があって1人少ない状態で半年以上を過ごしていたので、10月からようやく普通の体制に戻ったと喜んでいたのもつかの間である。万博の間は一時的な減員だったから、そんなに苦にならなかったのだが、恒久的に減るとなると精神的ダメージも大きい。

 1人減ったとしても、仕事の質を下げるわけにいかないから、がんばって同じ質を確保するに決まっている。んが、会社側は「がんばったね」という評価はしないで、逆に「その人数でできるだから」と減らしにかかる。

 世の中、こんなもんか。

10月17日

 会社が「新しいパソコンを送る」という。今まで使っていたのはThinkpadX22。Pentium3の700MHzでメモリは256MB。確かに3年ぐらい使ってきたので、バッテリーの持ちが少し悪くなって、キーボードの文字が消えたり、コンパクトフラッシュのレバーがとれたり、いろいろ不具合は出ていたが、テキストが書けて写真を少し加工できれば仕事では用が足りるので、スペック的にはまったく不満を感じていなかったから更新の知らせは意外であった。ま、くれるというのだから断る理由はまったくない。

 で、送られてきたのがThinkpadX32。Lenovoに売却したけれど、まだIBMのマークが付いていてうれしい。んが、並べて遠くから見ると、どっちがどっちかよく分からないようなパソコンで新しくなったありがたみがない。PentiumMの1.6GMHzに512MBのメモリだからスペック的にはかなり向上しているのだが、起動や動作など体感できる違いはあまりない。それでも液晶はやっぱりきれいになった。X22の液晶を初めて見たときも、そのきれいさに感動したものだが、やっぱり日進月歩で良くなっている。

 とりあえず、会社からパソコンをもらって最初にすることはハードディスクの入れ替えである。X22をもらったときにもそうした。なぜなら、カスタマイズしまくって、激しく私用に使うので、もし「ソフトのバージョンアップをするからパソコンを見せろ」と会社から言われたら、非常に困る。HDDを入れ替えておけば、返すときもオリジナルのHDDに戻すだけで良く、データを写し損ねることもないから精神安定上も良い。

 もともと入っていた40GBのHDDを、80GBのHDDに入れ替える。日立の80GBでも15000円しない。1年半ぐらい前に、40GBを買ったときも同じような値段だった。さらにその1年半前、20GBを買ったときも、同じような値段だった。さらにその1年半ぐらい前に、10GBを買ったときも同じような値段だった。どうやらHDDはお値段据え置きで1年半で倍々ゲームで容量が増えていくらしい。

 退屈なデータ移し替え作業。Windows98ぐらいまでは単純にHDDの内容をコピーすれば良かったのだが、Windows2000からちょっと難しく、というか面倒くさくなった。丸ごとコピーしてWindowsXPは問題なく動いたのだが、なぜかOffice2003がうまく動かず、再インストールをしなくてはならなかった。動くようになったからよしとしよう。

 そういえば、と思い出したのがcentrino。無線LANが内蔵されているんだっけ、とシステムを調べてみると、デバイスを停止してあったので動かしてみると、簡単にネットワークにつながった。これまで無線LANカードをさしていたPCカードスロットが1つ空いた。めでたしめでたし。

 3年ぶりの更新だが、うれしかったことと言えば、

・液晶がきれい
・PCカードスロットが1つ空いた
・バッテリーのもちが良くなった
・無線LANの接続までの時間が格段に短くなり、感度も良くなった気がする
・USBが2.0になった

ことぐらい。新しいことができるようになったとか、劇的な変化はないのである。パソコンの販売が伸び悩んでいるのもうなずける。

10月16日

 日曜日なのに出勤。しかも一宮の仕事場で夜勤。ま、休日は暇だからと淡々と仕事して、夜10時すぎに腹が減ったから、近くの中華料理屋へ定食を食べに出かける。

 店に入ろうとしたそのとき、携帯電話が鳴る。出かけるときには仕事場の電話を携帯に転送するのだ。

 なにかしらと出てみると、怪しげな声で「市内で銃撃事件がありましたかね」というわけのわからない電話。あるわけねえだろう、と思いながらも丁寧な口調で「いや、聞いていないですけど」と電話を切ったが、やっぱり気になったので警察に聞いてみると、「いま大変なんだよ」。本当だった。

 飯もお預けで、仲間にいろいろ電話して、現場へ向かう。やくざな人が散弾銃でやられたという凄惨な事件。ばたばたと忙しくすごし、帰ったのは明け方。