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2月20日

Photo by ロンリーマン

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 カニパーティーやるよ、というお知らせを見て、今年初めておおとろ亭に出かける。積もっている雪を見て「今年ってそんなに雪降っていないねえ」と冗談を言ったら本気で怒られた。

 カニパーティーよりも、とりあえず、今年の活動について考えをまとめようと雅号で出かけた。雅号はこのサイトにも書いている97年から乗っているロードスター。もう1つが耐久レースを走った雅久号ね。

 レースに出るには金と時間がかかる。出たことで得られるものとのバランスはどうか。集まった人といろいろ話をしたけれども結論は出なかった。

 間瀬以外で走ってみて、ロードスターの中でどれくらいのポジションにあるのか、知りたいという欲求がある。間瀬でやり残したことをやり尽くしてみたいという気持ちもある。とりあえず、2月25日をもって車検が切れる雅号はTORFに残して(いつもお世話になっています!)富山駅から東京出張に出かけた。とりあえず、乗れるロードスターは雅久号1台になった。

 なかなか難しい命題。大人がやる遊びだから、正解はないし、自分がどう納得するかって話なんだけれどもね。

2月17日

 亡くなる方向が確実だったクーマック耐久が突然、今年もやることになったそうだ。ロードスターでも戦える絶妙なレギュレーションがあったから参戦していたわけで、別の枠組みの耐久レースになるなら、まったく興味はなかった。だから、今年は間瀬で走るとは思っていなかった。それなのに、今シーズンは3戦。どうせなら、2010年シリーズの3戦目を開催してもらえれば、一生懸命戦って白黒付けられたのに。ま、分はこちらの方が悪かったんだろうけれども、何となく引っかかりを感じながら両方とも1位!と言っているよりは、精一杯戦って2位の方が気持ちが良い。

 突然、やる、と言われても、車につぎ込んでいたモチベーションと時間を、だいぶ仕事の方に振っていただけに、なんだか不意打ちを食らった感じ。「本当にやるのー?」みたいな。

 しかも、最強ライバルシビックチームが2台で参戦してくる、という情報も。丸3年、耐久に使ってきた雅久号のエンジンをオーバーホールするとして、だいたい見込めるタイムって読める。エンジンだけの伸びしろはコンマ5秒以内だ(笑)。あとはセッティングでもう少し伸ばせるかもしれないけれども、この2年間、ライバルのエラーを拾って勝ってきただけに、2位はなんとか取れても1位を取れる気はしないなあ。

 今の枠組みでやれることが見えているだけに、やっぱり「本当にやるのー?」って感じのモチベーション。デフだけ入れて、鈴鹿とか別のサーキットでも攻めて遊ぼうかと考えていただけに、また同じコースをぐるぐるするのは「いまさら感」が強い。1時間のスプリントレース3本を走るレースだから、コストもそれなりにかかるからなおさら。

 富山に行って、カニでも食べながら考えることにしよう。

2月15日

 お昼から新幹線に乗って東京へ。新宿へ行き、先日歩いて探し回った怪しい会社へ行く。法務局で登記が取れなかったのだが、カタカナではなくてローマ字で登記していたから出てこなかったというお粗末な顛末。再び新宿区富久町某所へ出かける。先日、歩き回ったから地図を見なくてもたどり着くことができた。案の定、表札には怪しい会社の名前なんて書いていなくて、大家さんに聞いてみると、代表取締役の名で3階の部屋を貸しているらしい。おそるおそるその部屋の呼び鈴を鳴らしたのだけれども返事はない。登記を取るためだけに借りている部屋なのだろうか。

 午後5時から国会議事堂方面で仕事だったので、地下鉄の駅に向けて歩き出す。東京だからそのうち地下鉄の駅があるに違いない、とずかずか歩き出したのだが、なかなかなくて、中央線にさしかかってしまった。いつの間にか、丸の内線をまたいでしまっていたらしい。信濃町駅にたどり着いたが、JRに乗って地下鉄に乗り換えるとお金がかかるなあ、と思ってスルー。赤坂御用地と神宮球場の間を歩いて、青山一丁目へ。もうここまで歩いたら、永田町はもう少し、と思い青山通りをずかずか歩き出した。赤坂の丘の上に向かって、高そうなお店が立ち並ぶ円通寺坂から山王日枝神社方面へ。ここら辺は溜池山王の名の通り、昔ため池だったみたいで、永田町方面へ結構な坂を上らねばならない。

 国会議事堂横の建物で2時間ほどで用事を済ませて、やっぱり歩き出した。外堀通りを虎ノ門方面へ歩き、西新橋方面へ折れて、お腹がすいたからつけ麺屋を探して、三田製麺所に入る。固めの太麺に濃厚なつけ汁。王道を行く感じだった。

 新橋駅から京浜東北線で品川へ行き、新幹線で名古屋へ。8時前まで新橋で過ごしていて、10時すぎには名古屋に到着してしまう。

2月13日

 なかなか日記更新をしないのは、仕事が立て込んでいるから。仕事でも文章を書いているので、休息の時間にまたぱちぱち打つ気力がなかなかわかないの。

 12月の割れた右側の親知らず抜歯に続き、左側の親知らずも抜歯した。1月29日のことだ。

 僕の親知らずは、斜めに生えるタイプだったらしい。人によっては水平方向に生えるタイプもあるみたい。12月の割れた親知らずの抜歯では、割れたのがちょうど下側だったので、斜めに生えていても隣の歯が干渉することもなく、すんなり抜くことができた。ちなみに、抜歯はペンチみたいな器具でぎゅっと引っ張ってやるものだと思っていたのだが、歯と歯の間に器具を押し込んで脱臼させて取り除くみたい。引っ張るのではなくて押す感じ。

 で、左側の親知らずは虫歯にはなっていたのだけれども、まだ形がきちんとあるので、隣の歯に干渉してそのまま抜けない。ということで、歯を分割することに。丸のこみたいな形の道具ではなくて、ポート研磨に使う超硬バーの、超細い版みないなダイヤモンドバーでカットするのだ。

 歯医者が気を利かせて、麻酔前に笑気ガスを吸わせてくれた。甘いにおいのするガスで、シューっと吸っているうちに、だんだんと酔っぱらったみたいになってくる。酔っぱらうと、気が大きくなって細かいことが気にならなく、陽気になると思うのだけれども、まったく同じ感じ。ガスを吸い続けて、なんとなくくらくらするって感じになってくると、何となく陽気で可笑しくなってくる。これから始まる悲劇的な場面を前に、ふふふ、とにやけているのはだいぶ不思議な光景ではある。「はい、効きましたね」と歯医者さんが、すかさずぶすっと麻酔を注射する。痛くないわけじゃないけれども、あまり気にならない、みたいな。ガスが止まるとあっという間にさめるのも新鮮。

 右側みたいにすんなりと抜いてくれるものと期待していたのだが、どうも様子が違う。2分割にして取り除いて終了、ではなく、分割してまた分割してさらに分割、みたいな感じ。どうも、歯根が3つ又になっていて、クレーンゲームのクレーンのようにぎゅっと握った感じになっていたので、苦労したみたい。まな板の上のコイ状態のまま、脳みそに近い場所で、がんがんと切削する振動が伝わるので、けっこう怖い。麻酔の時間を除いて30分ぐらいかかって取り除かれた歯は、ばらばらになっていた。

 それでも、普通の歯科なら歯茎を切開して取り除くと思うのだが、頭が少しだけ出ていたぐらいの歯を、カットするだけで取っちゃったのだから、手品みたいだった。かなり腕が良い歯医者で幸運だった。

 で、右側と同じように今回もそれほど後を引くこともないのかな、と楽観的に考えていたのだが、ちょっと違った。土曜日に抜いて、日曜日の休みを1日置いて、月曜日から仕事、と思っていたのだが、抜いた場所が腫れて熱っぽくて風邪を引いたときみたいに体調が悪い感じでなかなか仕事に集中できない。火曜日も、力が入らない感じ。水曜、木曜は痛みで仕事に集中できない感じ。金曜日も痛みが気になる、みたいな感じ。どうも、親知らずが押していた隣の歯も、圧力から解放されてかなり自由を謳歌していたみたいで、歯の根っこの部分がけっこう痛んだ。早めにロキソニンを飲んでしのぐ。

 おまけに困ったのが、口が開かないのだ。人差し指の先しか入らないぐらい口が開かないから、ご飯がいつものように食べられない。朝ご飯なんて、いつもはご飯におかずを載せてかき込む感じなのだが、口が開かないから少しずつしか食べられない。少量を素早く運ぶピッチ走法みたいな食べ方でしのぐしかなかった。食べた後は、傷口をぐりぐり動かした形になるので、抜いたところが腫れて痛くなって憂鬱になる感じ。

 1週間たった土曜日も痛みはあったのだけれども、だいぶ楽になった。そして、半月以上たった今は口は指2本分開くようになったけれども、まだ完調じゃない感じ。でもだいぶ、日常生活に戻った感じ。

 だいぶ、口内環境改善は進んでいるのだが、まだ道半ばで治療が一段落するまでにはまだまだ時間がかかりそうなのだ。

2月6日

 金曜日。六本木ヒルズで午前中にお仕事だったので、朝イチで新幹線に乗る。品川で山手線に乗り換えて、恵比寿から六本木。30分ぐらい余裕を見て出発したら、本当に30分前に到着するすごさ。

 六本木ヒルズのオフィス棟のインテリジェントな感じが肌に合わない。あるネット企業のロビーは東京には贅沢なぐらいのだだっ広い真っ白なスペースに、白いソファがいくつか置いてあるだけで、大きな画面で幾何学模様がうねうねと動いている、20年ぐらい前の近未来な感じのデザインだった。会議室に通されて、1時間ぐらいお仕事をして終了。

 午後は、消費者被害の片棒を担いだ得体の知れない会社について、実態があるかどうかの調査。新宿区の大久保駅近くにある法務局出張所に出かけて会社の登記簿を取って見るも「不存在」だと。頭に来たので、住所地をくまなく歩いて探してみることに。新宿区富久町にあると、得たいの知れない会社の得たいの知れない人が話していたので、富久町をぐるぐる歩くのだ。

 翌日も東京でお仕事なので、この日は宿泊が決まっていた。午後いっぱい時間があるので、大久保から歩いて富久町へ行く。携帯でナビさせたら3キロ弱だった。新大久保方面へ行き、韓流で元気な町を見物しながら歩く。妙に活気があって楽しい町だった。

 大久保二丁目で右に曲がって、適当に左に曲がり、東京医大方面へ。お腹が減ったので、「玄古」というお店で玄古つけ麺を食する。普通においしいけれども、普通盛りを頼んだら200グラムとつけ麺にしては少ない感じだったので、大盛りにしておけば良かったと激しく後悔する。

 つけ麺を食べ終わり、いよいよ富久町にさしかかったので、ぐるぐるととにかく歩き回ったけれども、大部分は住宅街。靖国通り沿いにはオフィスビルなんかもあるけれど、目当ての得体の知れない会社の名はどこにもない。2時間ぐらい歩いて、得たいが知れないだけに、やっぱりこの界隈には存在しないんじゃないかという確信を強めて、新宿3丁目方面へ。

 夜は、友人Kとその仲間と飲もうという話になっていたので、新宿駅へ行く。ところが、急な仕事が入ったので、どこか落ち着いてパソコンに迎える場所を探さなくてはいけなくなった。駅東のスタバは妙に込んでいたので、駅西に行くとマクドナルドを発見。ホットコーヒーとポテトだけ頼んで3階に行き、パソコンを広げて電話でやりとりしながら2時間ぐらい過ごす。

 友人Kと合流し、友人Kの友人とも合流して、安居酒屋でビールをがぶ飲みする。2次会は友人Kと2人で。都庁横のホテルまで何とか歩いて、ふらふらとベッドに倒れて意識を失う。

 土曜日。午後2時から、神田で仕事だった。チェックアウトは午前11時だったので、ぎりぎりまで粘って仕事をし、午前11時すぎにホテルを出る。

 次の仕事までは3時間。特にすることもないから、せっかく東京に来ているということで、神田まで歩くことにした。

 最初、適当に歩き出したら方向を間違えたらしく、途中で修正しながら歩く、歩く。靖国通りに出て、昨日歩き回った富久町を通り、市ヶ谷の防衛省前を通り、本当ならば九段下を通っていくと近いのだけれども、飯田橋辺りの、中央線が走っている風景が風情があったので、そのまま水道橋方面へ歩く。死亡事故のあった某遊園地の横を通って、ようやく遠回りしていることに気がつき、南へ曲がって白山通り。ここまでで、8キロぐらい歩いたのか。

 すでに目的地は近くなっていて、お昼の込む時間から外れたちょうど良い時間になってきたので、ぱっと目に飛び込んできた大熊製麺に入って、つけ麺を喰らう。出し割りまで頼んで、おいしくいただいた。2日連続つけ麺だが、やっぱりまるかんじゃないと満足できないみたい。

まるかん

 神田周辺を歩いて、仕事場所へ。2時間ほど仕事をして、どうせなら東京駅まで歩いてしまおうということで、大手町辺りを歩いて東京駅へ。

 新宿から東京駅まで歩いたことになるけれども、やっぱり新宿界隈よりも、神田周辺の方が歴史があって趣があって、首都っぽいなと思った次第。スーパー金持ちじゃないとなかなかまともな住宅に住めない地域ではあるけれども。

 新幹線に乗って名古屋へ。歩いて新宿から神田まで行った時間よりも早く名古屋に到着した。

1月31日

 今月もあれこれ追われているうちに最終日。なかなか更新する余裕がない。この1月をメモ風に。

1月10日(月)

 高校の先生だったのだけれども、思うところがあって、イチゴ農家に転身した素敵な先輩のところへ行く。「野良仕事で暮らす」決意を込めてのらくら農園と名付けて、今シーズンから生産を開始。これは応援せねばなるまい、とお世話になった人たちにイチゴを送った。「甘くておいしい」と大好評。贈答用なので、巨大。スーパーで並んでいるイチゴは、熟すちょこっと前に収穫するらしい。のらくら農園の贈答用は、畑で熟したイチゴを送るので、また別格のうまさがあるらしい。甘いイチゴを食べたい人はぜひどうぞ。

のらくら農園甘くておいしい

1月11日(火)

 夕方、新幹線にて東京へ。とあるシンポジウムに顔を出して、神田のホテルにて宿泊。おなかが減ったので神田駅周辺をうろつき、つけ麺を喰らう。可もなく不可もなく。

1月12日(水)

 霞ヶ関付近にてお仕事。仕事自体は40分ぐらいで終わって、東京駅から新幹線にて戻る。

1月14日(金)

 柄でもないのだけれど「大勢の前で話してほしい」という無茶振りを昨年春ぐらいから引き受けていて、この日は本番を間近に控えた打ち合わせ。こんな感じでお話をしたいというと、おおむねOKが出た。配偶者も合流して、新栄の富山居酒屋にて、飲む。あまり、富山な感じではなかったが、まあまあおいしい居酒屋であった。

1月15日(土)

 ある会合に顔を出しに大阪・中之島付近へ。夜はその会合の懇親会。2次会で別のグループと合流して3次会まで行ったら、久しぶりに記憶を失った。反省。

1月16日(日)

 午前中、ある会合に顔を出し、昼すぎに新幹線にて名古屋へ戻る。大阪−名古屋間なんてほんの50分程度なのだが、この日は大雪。米原あたりで自動車と同じぐらいの速度で運行したこともあって、2時間もかかった。

 配偶者には新大阪駅にて冷凍明石焼きのおみやげを買っていったのだけれど、名古屋駅で降りたら持っていないことに気づいた。時すでに遅しで、座席に置きっぱなしにしてしまったことに気づいた。明石焼きは不審物として捨てられちゃったんだろう。

1月18日(火)

 来てくれ、と言われたので名鉄にて知多半田。古い町並みが残っていて興味深い地域。

 知多半田とか、太田川とか、名鉄の河和線沿いの駅は地域が抱えてる人口を考えたらあり得ないぐらい寂れた駅前。たぶん、地域が栄えていないということではなくて、駅前の地主だった人たちが裕福で、開発するモチベーションがまったくわかないまま放置した結果だと思う。名鉄の駅ってそういう場所が多い。それこそ、名古屋という都市に30分以内でいけるロケーションなのだから、いくらでも開発余地はあるはずなのだが。

1月20日(木)

 この日が講演の本番だった。半年以上、何を語るかをぶつぶつ考え続け、12月ぐらいからパワーポイントなんぞを初めて使って話を組み立てていた。気合いを入れすぎて内容を盛り込み過ぎて、中盤が走り気味になってしまったが、何とか最低限の仕事はできたかと。話している内容でリアルタイムに聞いている人の反応が分かるので、面白い。「これは話さねば」と思っていた内容はあまり興味を持たれなくて、「客寄せパンダ」みたいな内容はやっぱり食いついてきて一生懸命聞いてもらった、みたいな。

 とにかく、しゃべるっていう技能はけっこう大変で、とても疲れた。

1月21日(金)

 富山から名古屋に異動になった同業他社の人たちの間で「富山同人会」みたいな集まりができあがっていて、時々飲んでいたのだけれども、その中心で音頭を取っていた人が東京に異動になってしまったので、この日は送別会。集合が午後9時15分ってところが、この業界の病的なところだ。

 どうせ、9時15分に行ってもだれもいないに違いないので、ゆっくり仕事をして午後10時ぐらいに会場に到着したら、ちょうど半分ぐらい集まっていた感じだった。金山の市民会館前の飲み屋で閉店までいて、2次会へ行って午前2時ぐらいにタクシーで帰った。

1月22日(土)

 東京で12時からお仕事だったので、午前10時前には家を出なくてはならない。2時まで飲んでいたので、二日酔っぱらいで大変だったのだが、なんとか新幹線に乗って、新橋の会場に12時前に到着する。

 そこから、ぶっ通しで6時まで次々変わる報告者のお話を聞き続けていた。夜は懇親会にちょこっと顔を出して、怪しい業者の事務所を突き止めに日本橋茅場町を徘徊し、歩いて日本橋のホテルにたどり着いて意識を失う。

1月23日(日)

 正月に富山が荒れ模様という天気予報だったので、配偶者の親にまだあいさつをしていなかった。さすがに、新年のあいさつをしなくては不義理だろうということで、早朝の東京駅から新幹線に乗り、越後湯沢ではくたかに乗り換えて富山へ。

 元日にあまり雪がなかった越後湯沢は景色が一変して豪雪状態。上越に抜けるまでの間は一面雪景色だった。富山県内に入ると、予想したほどの雪景色でもない。高岡に到着したら、路肩に雪が積もってはいたけれど、想像したほどではなかった。どうやら、この日に晴れて一気に解けたらしい。

 先に富山入りしていた配偶者と合流して、挨拶回りなんぞをして、砺波の飲食店にて両親や祖母としゃぶしゃぶを喰らう。「仲良くなるには鍋が良いよね」という打ち合わせ通り、同じ鍋をつつき回してうち解けることができた(と思う)。

 再び挨拶回りで高岡に戻って、夜に砺波インターから自宅へ。東海北陸道の路面は凍っていなくて快適に走ることができた。夜、一宮のヤマダ電機にて、パソコンを物色。Windowsマシンを探したのだが、マックに激しく惹かれてしまう。

1月24日(月)

 約束があったので、一宮へ。一通りお話を聞いて分かれ、国道22号沿いのPC-DEPOへ行く。とりあえず、Windowsマシンも必要なので、適当に安いものがないかと物色。すると、富士通のFMVが激安な感じだったので、その場でクレジットカードで衝動買いしてしまった。

1月25日(火)

 とりあえずパソコンを買ったら最初にすべきはバックアップでしょう、としこしこDVD-Rを焼き始めるも、失敗しまくる。家にあるいろんなブランドのディスクを試してみても、一律に失敗するので、これはもしかして、DVDディスクドライブの初期不良じゃないかしら、ということで、買ったお店へGO。とりあえず、バックアップディスクの作成をしてみて、不良があるかどうかを確かめてくれるというので、お願いして、向かいにあるユニーにて時間をつぶす。

 1時間ぐらいしたところで「普通に焼けますけれど」と、困った店員さんから電話がかかってきたので「じゃあ、バックアップディスクの作成でお願いします」と作業を依頼した。このお店では5000円でバックアップディスクを作成してくれるサービスがあるのだ。

 同じマシンでお店ではエラーなくDVD-Rが焼けたということは、家に在庫していたDVDがことごとく不良在庫になっていた、ということか。3年ぐらい前に買ったものだけれども、なぜ不良になったのか理由が分からない。保管状況が悪くて、陽にでもあたって壊れたということだろうか。

 ユニーにて仕事をしながらかなり時間をつぶして、ようやく焼き上がったころには夕方になっていた。そこから初めて出社した不良社員だということは内緒にしておく。

1月27日(木)

 夕方から東京へ。弁護士会館にてお話を聞く。なんだか、風邪を引いたみたいで、寒かったので、霞ヶ関から赤坂のホテルまで行くのにタクシーを使う。ビールを大量に飲んで意識を失う。たくさん寝て、風邪を治すのだ。

1月28日(金)

 朝。そこそこ体調が回復していた。溜池山王まで歩いて、お仕事。お昼までいて、原宿まで電車に乗って、神宮前方面をうろうろうしてから、名古屋に戻る。

1月29日(土)

 歯医者。左側の親知らずの抜歯。斜めに生えていて、「そのままじゃ抜けない」と。じゃあどうするかといえば、歯をぶった切るしかない。麻酔をして、のこぎりみたいな道具で親知らずがカットされる。歯を通じて脳みそに伝わる振動はかなりのもの。根っこの形が特殊だったらしく、結局6分割ぐらいされて親知らずが抜歯された。かなり壮絶な感じだったのだけれども、歯茎を切開することはなかったので腕がよい歯医者さんだと感心する。

 家に戻って痛み止めを飲んで、おとなしく寝る。

1月30日(日)

 夜に風博士のライブがあったのだけれども、歯を抜いて熱っぽかったので寝て過ごす。

1月31日(月)

 奥歯を抜いた影響で、病人みたいに力が入らない。仕方がないから出社したけれども生気が抜けた感じで座っていたからあまり仕事にならなかった。

1月4日

 でたらめに飲んで、だれかれかまわず言いがかりのような論戦をふっかけるので将来を案じていた富山時代の体育会系後輩が「飲みに行きましょう」と生暖かい殺気で電話をかけてきた。この1月で名古屋に異動になって、住み処から荷物を出して名古屋市内のホテルに泊まるので、暇そうな先輩に電話をかけてきたという分かりやすい行動だ。

 せっかくだから配偶者も呼んで、どうせ到着が遅くなるから先に飲んでいようと、新栄にある富山の魚がおいしいという居酒屋に出かけたら、休みだった(ioi)。まだ、世間は平日じゃなかったらしい。

 ネオン街を栄方面に歩くも、やっぱり休みの店が多いし、良さそうな店もない。「世界の山ちゃん」の本店があったので、ここでも良いかなと思いつつ、結局、栄まで到達してしまった。あてにしていた沖縄料理屋も見つからなく、名古屋にしてはかなり寒い中を途方に暮れて歩いていたら「つけ麺」の看板が。「飲む前に腹をふくらましちゃえ」と入ることにした。決して飲み代をけちっているのではなく、つけ麺ブームなだけなのだ。

 「ムッチリつけ麺 ムッチー」っていうお店。かがんで入る形の入り口を入ると、やっぱり店内は狭くて食券を買って、つけ麺をオーダーする。大盛りにした覚えはないのに、どんぶりに山盛りになった極太麺が来たので少々焦ったけれど、上げ底だったので安心した。

 正統な豚骨魚介系のつけ汁はどろどろで、ジャンキーで濃厚な味がおいしい。麺は堅めのゆで加減だったけれども、ほかの店みたいにあごが疲れるほどじゃなかった。何とか完食してスープ割りをつけ汁に加えてすすってみる。スープ割り自体にかなり味がある感じ。

 後味がいつまでも口の中に残って終盤にくどくて気分が悪くなりそうなつけ麺屋もあったけれども、ここはおいしく食べられた。が、スープは飲み干すことはできなかった。富山のまるかん(冬季休業中)でつけ麺を知っただけに舌が肥えているみたいで、スープまで飲み干して大満足って感じにはならない。

富山のまるかん

 栄駅の改札で待ち合わせて、やっぱり近くの山ちゃんへ。手羽先をつまみにビールを飲んだら、麺が胃でふくらんで大変なことになった。来年、みそじーずに仲間入りするという体育会系後輩は、年齢を重ねて人間が丸くなったみたいで、富山時代みたいに狂ったようなペースで飲み続けることもなく、終電で帰宅することができた。

1月3日

 正月の2日から湯沢中里スキー場にてがんがんとスキー。日本海側が大雪だということで警戒して、全ルート高速で湯沢まで走ったのだけれども、関越トンネルを越えてもそれほど雪がなくてずっこけた。西日本では異常な大雪が降っているみたいだけれども、少なくとも富山、新潟ではそれほど大した雪は降らなかったみたい。

 どちらかというとファミリーゲレンデなんだけれども、宿から道具を持って歩いていけるということで、2日券を買う。

 朝は遅くてほとんどお昼からの滑り出しだったのだが、午後4時40分のリフト停止まで滑ったら足はがくがく、腕はぱんぱんってな感じになってしまった。最長、2キロぐらいのゲレンデで、ほとんど休みなしの直滑降で滑ってリフトで休んでを繰り返していたら、今の体力ではちょこっと滑りすぎたらしい。日頃の運動不足を反省する。あ、体重が増えたのもあるか。過去最大値付近まで増加したので、新年からは、体重を絞る所存。運動しなくては。

 宿に戻って配偶者の友人たちと夕食。部屋に戻ってわいわい話ながら夜が更けて、いつしか意識を失った。

 今日、3日も朝からスキー。今日は友だちと一緒なので、ぼちぼちペースで。まったりと滑るのも楽しい。が、1回急斜面を降りただけで、足ががくがく。昨日の疲労が取れきっていないためと思われ、こういうところで年齢が重なったことを実感してしまう。

 午後4時まで滑って切り上げる。宿に戻ってお汁粉をいただいて、帰路へ。雪が大したことないので、峠を越えて、野沢温泉方面に抜け、飯山インターから高速に乗ることに。野沢温泉の日帰り温泉施設で風呂に入って晩ご飯を食べ、日付が変わる前に自宅に戻ることができた。住んでいる北名古屋から湯沢まで行くルート、すべて高速に乗ると480キロぐらいなのだけれど、飯山インターと下道を組み合わせるルートだとそれより100キロ弱距離が短い感じ。

 高速道路の割引が無ければ文句なしで下道ルートを使うのだが、今は休日であれば上限1000円なので、オール高速でも別に懐は痛まない。が、時間がそれほど変わらないことを考えれば、下道を使って往復200キロ弱距離が短ければ、軽自動車であれば2000円ぐらいガソリン代が違うので、やっぱり大寒波が日本列島を覆って大荒れしない限り、下道を使っていった方が良いことが分かった。

1月1日

 あけましておめでとうございます。

あけましておめでとうございます。

 例年通り、尾張旭の実家に戻って年越し。夕方に戻って風呂入って、紅白見ながら普段よりはちょこっと良いご飯を食べて、酒を飲むという正しい作法で。

 冷蔵庫のビールはあらかた空けてしまって、母親が楽しんで飲んでいた赤ワインも奪って空けちゃった。紅白が終わって日付が変わるころにはぐだぐだになっていて、すぐにでも横になって意識を失いたかったのだが、配偶者の冷たい視線を感じたので、雪の降る中、近くの神社に初詣に行く。

 ちっちゃな神社なのだが、300人ぐらいが列をなしていて、そのまま回れ右して帰りたくなったのだけれども、配偶者にぐいぐい手を引かれて最後尾に並ぶ。配偶者のストールを傘代わりにして30分ぐらい並んで財布の中の小銭を全部つかんで賽銭箱に投げて、ただ健康を願った。こう書いていると、ちゃんと覚えているみたいなのだが、断片的な記憶を書き連ねているだけなんだけれど。

 元旦は寝過ごして、元日の昼ぐらいに起き出して雑煮とおせちとおとそと。テレビ見ながら家族でのんびり過ごして、夕方、自宅に戻る。出し忘れた親戚への年賀状を書いて、出発。

 昨年に続いて越後湯沢へ。元日から高速道路460キロ走破っ。

12月31日

 ががっと仕事を片付けて、最後の週は仕事もあまりしないでのんびり過ごした感じ。今年もいろんなことがあった。

 生活の変化といえば、3月に富山から名古屋に引っ越して、一人暮らしから二人暮らしになったことか。イタリア旅行も印象深かった。

 クーマックカップは第1戦の完敗に奮起して、雅久号を1から造るつもりであれこれいじった。引っ越したにもかかわらず、なぜか富山にいた1年だった。最後の2カ月はさすがに富山行きペースは落ちたけれど。

 9月の第2戦では、ライバルに対してまだペース不足だったけれども、チーム・マッサGOGO一同、そのときできたベストの走りをミスなく(少しはあった)こなしたら、ライバルと同一ポイント、同一ラップだったということで、同時優勝という結果を残すことができた。もう1回レースしたら白黒はっきりしたんだけれどねえ。

 もし3戦目があったとしたら、エンジンをオーバーホールして臨んでも、ちょっと分が悪かったと思う。でも、ミスが許されない緊張感が味わえるというのも、やはり一生懸命に臨んでくれるライバルがいるから。そういう意味では、恵まれた環境があって幸せだった。

 来年は、同一の条件のレースはたぶんなくなって、レギュレーション次第では間瀬レースはお休みすることになるかもしれない。やっぱり、仲間と一緒に戦えるところが魅力なだけに、別ステージで走るというモチベーションは今のところないかなあ。

 今度、雪かきを手伝いながら、来年をどうしていこうか考えよう。

 更新がさぼりがちになった1年だったけれども、このサイトも一応続けることができた。おつきあいいただいて、ありがとうございました。

 来年も、よろしくお願いいたします。