仕事中にホームセンターやカーショップを回りまくり、暗くなったころに颯爽と帰宅して、庭で足回りの交換をしていたら、軽自動車がずかずかと家の玄関までやってきた。少し奥まったところの家だから、普通の神経なら車を乗り入れないはず。自分の車は庭にまで入れちゃっているくせに、隣の家の大学生かな、鬱陶しいな、と思っていたら、「雅さん(仮名)」と、男が僕の名前を呼んだ。
首から掛かった名札が目に入り、もしやと思ったら、男が切り出した。「私、NHKのものですけれど。今日訪問した理由を、単刀直入に言うとですね、受信料を払ってほしいんです」。うっすらと笑みを浮かべながら、それでも目はちょっと真剣な、そんな複雑な表情で、男が言い放った。
ついに来た、と思った。ほとんど家にいないものだから、集金に来ていたかもしれないけれど、集金屋さんに出くわしたことはないのだ。いや、松本に来て数カ月のころ、今から3年ちょっと前に一度来たが、家にはテレビがない、と追い返した。本当になかったのだ。
親が家に遊びに来たときにテレビを持ち込んでから3年ほど。その間、NHKの受信料は払うことがなかった。請求されないのだから、払う必要もない。
あくまでも腰は低く、丁重な言葉遣いではあるが、少々行き過ぎな感じ。ずかずかとやってくる態度がちょっと気に入らなかったので、振り込み用紙を置いていってください、とだけ返事をした。用紙だけもらって払わなければいい。「いやいやいや、方法には2通りありまして、今ここで1395円を払っていただくか、もう一つは、銀行から引き落としをする手続きをしていただくことになるんですよ」と男。やけにハイテンションで、声がやたらめったらでかい。
汚れた手でポケットから財布を取り出すのもいやだったので、ほとんど家にいないんですけれど、それでも払うの?と、切り返す。理由にはなっていないのだが、払うにしても次の機会にしてもらいたかった。テレビは見ているし、NHKを見る比率が高いので、今度は「持っていない」とは言えない。
「いや、いないのはよく分かっていますよ。私もよく近くに来るんですが、何度来てもいないですからね。それにね、以前も来ましたけれど、ちょうど雅さん、そのときは引っ越しした直後でしたよね。2年ぐらい前でしたか」
なんと、以前追っ払った男だったのだ。しかも、昔のことをはっきり覚えてやがる。良く覚えていますね、と感心したら、「私もこの道のプロですからね。へっへっ」と、上目遣いの妖しい眼光で僕をにらみつける。
「いま取り込んでいるし、後日振り込めばいいでしょ。用紙だけ置いてってください」。男の目が再び妖しく光る。「いや、別に雅さんのことを言っているわけではないんですがね、用紙だけ置いていっても、若い人の中にはね、やっぱり払わない人がいるんですよ。ですから、今ここで払っていただくか、振り込み手続きをですね…、云々」。向こうのペースにはめられそうだったので、今本当に忙しいんですよ、と、むなしく抵抗してみる。
「いやね、今ここで私が言っているのは、雅さんに2年分を一度に払ってくれ、という、そんな話じゃないんです。ただ私は、3月分以降を…、あとどれくらいここにいらっしゃるんですか。半年ですか。だったら、3月以降の分をね、半年だけ払ってもらいたいんです」
声が異常にでかい。まるで玄関先で借金取りに怒鳴られているような雰囲気である。振り込みだとか、手続きだとか、払わないだとかいう単語が、ご近所さんに聞こえては、これは良い事態とは言えない。「あの人、どうも借金取りに追われているのよ」などと誤解された陰口をたたかれそうである。いや、誤解されなくても「あの人、NHKの受信料すら払っていないのよ」と正しい陰口をたたかれても、それはやっぱり不名誉なことである。こうやって、僕がご近所さんに気を遣っている瞬間も、男の集金トークは止まらない。
「こうしましょう。話をですね、1億人いる国民の平等な負担という…」
負けた、と思った。さすが集金の専門家である。払わない連中をいかに払わせるかでメシを食っているのだから、そんなやすやすと引き返すわけもない。なによりも、玄関先で、こうも大声でしゃべりまくられては、本当に近所から心配されてしまう。
いかに早く帰ってもらうかに作戦を切り替えた。じゃ、1395円払います、と答えたら、「そうですか、申し訳ないんですけれど、認めがぽんと一つ、いるので」と抜け目なく要求してくる。顔を見るものいやだったので、すぐさま印鑑を取りに家の中に入ろうとすると、「書くのに平らな場所がいるんですけれど、中に入れてもらっていい?」と男。入れたくもなかったし、何よりも足回りの梱包やらエンジンパーツやら新聞紙やらで、えらく汚かったので、向こうでやってください、と足回りをばらしている最中の物干場に案内した。照明も付きっぱなしだ。
印鑑を取ってきて、財布からお金を取り出し、コンクリートの上に置く。男は領収書に記入している最中。「ご住所は、ここは大村ですか。番地以降はないんですよね。じゃ、ここに雅さんのお名前を書いていただいて、認め印を押していただけますか」。もう逆らう元気すらない。言われるがままに汚い手で名前を書き、印鑑を押す。
「それじゃあね、ここには3月分、と書いておきましたから。今日は2月も26日でしょ。2月分ということにすると、3月に入ってすぐまた請求書が来てしまいますから、それではもったいないですから、特別に3月から。3月分としておきます」。なんだかもう、気が狂いそうになってくる。
領収書と、向こうの控え書類を切り取ろうとして男が失敗した。切り取り線から大きくはみ出して、びりりと領収書がやぶれてしまったのだ。いいですから、そこに置いて行ってください、といったのだが、「いや失礼しました。今すぐテープで張りますから」。冗談だろ? と思うが、男はそそくさと自分の車に戻っていった。
もういい加減付き合っているのもいやになってきたので、再び作業に戻る。マツダスピードの車高調の分解に入ったのである。
男が戻ってきてテープで領収書を張り始めた。気にしなくて良いですよ、と言ったら、「いや、雅さんはやさしいからいいけれど、僕だったら怒るよなあ」と、いかにもご機嫌な様子でぺたぺたとテープを張りまくる。抵抗しなくてよかった、と思った。もし、「怒るよなあ」なんてことを人にいう人間を、再び追い返したら何されるか分かったものじゃない。「今、タイヤの交換ですか」と聞いてきたので、新足回りを指さして、これを付け替えているんです、と言ったら、手をぽんぽんと上下させて「ああ、バネですか。がんばってくださいね」とだけ言い残して、ようやく引き上げていった。
侮りがたし、NHK集金人。奴らはプロだ。