日常

11月29日

 特定非営利活動法人を立ち上げて、介護問題に取り組んでいる人と会った。この人、28歳の男性である。まだまだ若いのに、すごい行動力だ。

 東京の大学の語学関係の学部に入ったものの、高校時代の勉強の延長のような詰め込み学習に愛想が尽きたらしい。世田谷に住んでいる、重度身体障害者の介助をするボランティアに出合って、のめり込んでいった。

 1年で大学を中退。老人介護の仕事で稼ぎ、夜間の学校に通いながら、資格を取った。「人と人と会うのが楽しい」と、介護の仕事が思いのほか、自分に合ったらしい。将来はこの道しかない、と決めてしまった。

 就職したのは介護保険がスタートする前夜。故郷である長野県でも事業所ができることを知り、ある介護会社に入った。

 しかし、急に規模を拡大したためか、ろくなマニュアルも、ノウハウ伝授もなく、ただ地方に任されるだけの運営。「長野県に合ったやり方があるはずなのに」と疑問を持ち始めたのだとか。この業界ではなかなかの給料がもらえていたのだから、普通の人だったら、疑問を持っただけで流され、そのままただなんとなく、毎日を過ごしていたはずだ。

 ところが、この人は違った。働きながら、NPO法人の設立を準備しちゃったのである。勤めながら昨年10月に法人を設立してしまい、今年2月に退社すると同時に、介護事業者の認可を得た。

 「独立してもやっていけると思った」と、ケロリと話すのだが、なかなか普通の人にはできない。独立に当たっては、介護会社の顧客をもらっていったそうだから、したたかではあるのだけれど、それでも、NPO法人だからねえ。どう考えても、稼ぎがありそうにない。

 設立以来、ヘルパー派遣などの介護保険事業をやったり、介護保険では認められていない事業もやったりしながら、来月から「託老所」と呼ばれている場所を設立してしまうのである。けっこうこの地域では先進的な取り組みをしているのだけれど、「自分だったらこうしてほしい、と思うことをやるだけです」と、きっぱり。

 自分の信じた道に突き進むその姿に、正直、しびれました。5、60代で人生の酸いも甘いも味わった人なら、いかにもありそうな話だけれど、20代。同じ世代として、ため息が出てしまう。

 仕事場の些細なことで、この世が終わったような騒ぎをしているような僕が、とってもちっぽけに思えました。

11月27日

 仕事で、美麻村というところに行った。松本から、40キロぐらい北に行った、山間の村である。そこで、仙人のような暮らしをしている人と会うために。

 長野五輪のときに整備された高瀬川沿いの通称「オリンピック道路」を北上する。長野県北部は五輪開発に伴う道路が多い。松本は高速道路が整備された以外には、こういった恩恵はほとんどなかったのだけれど。

 途中の温度計は3度を示していた。大町市内に入ると、ちらりちらりと雪が。山道を登り、美麻村の中心部(ものすごい田舎!)に行ったときには、雪が本降り。辺りは銀世界であった。気温はそれほど低くないので、路面はただ濡れた状態。けれども、コーナーの先は凍っていないかと不安になりながら、慎重に運転する。ジムニーだから、いくら飛ばしたところで知れているけれど。

 明日になって晴れると、北アルプス山はすっかり雪化粧しているんだろう。明日の予想最低気温はマイナス4度。

 すっかり冬。

11月25日

 ロードスターに潜っての作業が終了したので、友人Kに電話した。

 「今日休み?」

 ちょうど休みであった。「今すぐ来てくれない? 軍手は用意するから」

 友人Kは逃れられない、とあきらめている様子。「いま、ちょっと離れたところにいるから、待っていろ」。意外と早くやってきた。

 エンジンを吊るため、4メートルの足場用鉄パイプを立てる。ちょっと1人ではできない作業だ。3メートル以上の高さにチェーンブロックを吊るさなくてはならないのに、持ち合わせの脚立は1メートルほど。届かない。ジムニーのスタッドレスタイヤを4つ重ねて、その上に脚立を置いて、その上に立ってみたら、僕の身長では届かなかった。僕より背の高い友人K、見事にチェーンブロックをフックにかけてくれた。

 ボルトに鎖を通し、エンジンを吊る。ミッションとの連結がなかなか外れなくて、往生した。30分くらいあれこれやっている間、従順にも待つ友人K。何とか外すことができ、腰下を運ぶのも手伝ってもらった。電話1本で来てくれる。やはり、持つべきものは友達である。お礼に夜、ファミレスの「バーミヤン」でごちそうした。12月1日に松本駅隣で開店するホテルに転職した友人K。研修の話で盛り上がる。

 午後9時半に帰り、軒下で腰下の分解。何と、ピストンだけで5gの差があった! しかも、1番と4番。どうりで高回転での振動が多かったわけだ。

11月24日

 スーツを作ってもらうため、ディーラーに行った。店長にはエンジン製作でアドバイスを何回ももらい、電子ばかりまで借りているので、恩返しである。「2着買って」との要望には、金がないから応えられなかったけれど。

 着るものにはまったくこだわりがない。生地を選ぶだけで困ってしまう。幸い、2本のズボンが付くコースでは選択の余地があまりなかったから、店員のお姉さんとあれこれ話しながら決めた。決め手は、業者の「若い人はこれでしょ」という言葉。やはり、プロの言葉には弱い。「あ、そうなんですか」。これで決まりである。

 形はシングル。ボタンは3つ。聞かれたとき「一番流行っているやつで」と答えちゃった。寸法取りは就職祝いに作ってもらったスーツを着ていったので話が早かった。「このスーツは、ここがこの寸法ですから、同じにしますか」と聞かれるので「はい」と答えるだけである。

 できあがりは1カ月後。ボーナスが出ていると思われるので、何とか支払いができそうである。

 たまにはオーダーメイドもいいね。仮縫いがないけど。

11月20日

 長野出張で、夜に友達を誘って飲んだ。2時間ぐらい空き時間があったので、長野の中心街を歩いた。街を知るためとにかく歩いた。早足で2時間だから10キロ弱。

 はっきり言って、長野を見くびっていた。松本人と長野人は気質の違いから仲が悪い。明治初期のころは違う県だったし、戦前は分県論も何度か高まったらしい。高速で走っても1時間ぐらいかかるほど距離が離れているので、地域の一体感は全くない。日銀の支店や陸上自衛隊駐屯地がなぜか松本にあるのも、長野との誘致合戦で引っ張ってきたからである。戦前、高校野球決勝戦の長野商業と松商学園の勝負では、スタンドで乱闘騒ぎが起きたほど、とにかく対立甚だしい。

 生まれは尾張でも、3年以上松本に住んでいると、そんな気質がうつってしまう。だから、長野を見くびっていた。長野で1番は松本だと。商店街も松本の方が元気がいい。長野は駅近くのそごうとダイエーがつぶれるし、宇宙人田中康夫に引っかき回されているし、とんといい話がない。善光寺だって、お城にはかなうまい。

 そんな思いを抱きつつ、駅前をぐるぐる歩いた。面積が広いだけで味に欠ける街並みである。つまらん。黙々とただ歩いた。1時間ぐらい歩いて、少し北の権堂へ。ここは県内一の歓楽街。アーケード下は煌々と電気が点いていて、呼び込みの兄さんやら姉さんやらでにぎやかである。実際に歩いてみて、少し考えが変わった。まだまだ元気があるな、と。

 アーケードを抜け、善光寺の正面の道に出たら、屋台があった。さっき歩いていたときに、花火を打ち上げた音がしたから、何かの祭りだろう、と思ったら、熊手を下げて歩いている人とすれ違った。商売繁盛を祈るえびす講である。そうか、そうであったと、屋台につられて善光寺の方向に向かう。

 古くからの街並み。文芸座。屋号。横に伸びる路地。古くからの雰囲気をちゃんと守っているのは大したものだ。ついでだから善光寺の境内まで行った。お参りして、先ほど気を引かれた路地へ向かう。飾られた表通りにはない、生活のにおいを感じる。街を味わうなら、路地を歩くのが、いい。

 薄暗い路地を抜けたら、再びずらりと並ぶ屋台。一層の人混み。えびす講を営む西宮神社に近づいたらしい。たこ焼き、クレープ、焼き鳥、大阪焼き、綿菓子。正しい祭り屋台が並ぶ。いっそう人が増えてきたところで、熊手を売っている屋台がずらり。「勉強するよ!」と威勢のいい掛け声と、雑踏。ビールを片手に焼きそばを作るお姉さん。売る気があるのか分からないおじいさん。ストーブに当たりながら、商売そっちのけで談笑。正しく本物のお祭りがあった。

 それに引き替え松本は。昭和40年代、先見性と行動力があるから、再開発で通りに立ち並んでいた蔵をすべて壊して道を広げた。古い街並みは中町という蔵が並んでいるところぐらいしかない。今年終わる中央西の再開発では、無機質な街並みができちゃった。確かに、松本商人の方が、時代を読んでうまく立ち回ったけれど、失ったものも大きい。古い物が嫌いな気質だから、あまり残っていない。城下町独特の風習も忘れ去られかけている。

 やっぱり、善光寺は強かった。大型店舗がつぶれて景気が悪い悪い、とは言うけれど、それは善光寺の回りに新しくふくらんでいった街での話。善光寺回りの街並みは、景気なんてどこ吹く風、てんで問題じゃなかった。長野もやるなあ、となんだか分からない、間抜けな言葉をつぶやいた。

 その後、権堂で飲みまくりうたいまくる。

11月16日

 なぜか仕事で大学病院に行った。ある人と会いたかったからである。別に深い意味があるわけではなくて、相手は40代のおっちゃんである。

 なかなか会えずに待ちに待ったのだが、待っている間、行き交う人々をとっても興味深く観察した。医大生が近くを通過すると、激しくうるさいのは当たり前として、出入りする製薬会社のセールスマンが興味深かった。

 研究室に入り込むセールスマン。それを迎える助教授や講師たち。平身低頭のセールスマン。時に傲慢無礼な「センセイ」たち。待合室でもスーツ姿に七三の出で立ちで、いすが空いているのに、飽くことなく立ち続け、名前が呼ばれるのを待っている。大学病院は、比較的重い患者の集まる場所である。とにかく目立つのである。ま、濁った目できょろきょろしながらぶらついている僕も相当目立っているんだろうけれど。

 結婚式に出た医者の卵の友人によると、治療に際しては病院ごとにある病気に対処する順序を決めたプロトコルというものがあるらしい。医者としては効果が同じならどの薬を使っても同じこと。しかし、一度、その病院で、ある病気に対するプロトコルが確立すると、しばらく変わることがなく使い続けるのだという。製薬会社からすれば、そのプロトコルに自分の会社の製品が使われれば、安定した売り上げが見込めるわけで、必死になって売り込むのだそうだ。実際、その友人も、セールスマンによるさまざまな攻勢を受けるらしい。

 待合室のセールスマン、面会の申し込みに対し「あと1時間ぐらいかかるよ」と言われても目を輝かせてうなずく。製品名をプリントしたティッシュペーパーを4箱下げて、しかも袋にその科の人数分、差し入れの飲み物を携えていたりして、もう、涙ぐましい努力。一方、患者をさばきながら対応している医師や看護婦は迷惑そう。見ているこちらが胸の痛くなる光景であった。

 大きなお世話だが。

11月10日

 ロードスター乗りとで集まって、バーベキュー。屋根のある場所で、午前中から肉を焼き、喰らう。普段できない、マニアックな話に興じることができて、素晴らしい。「コンロッド削りすぎちゃったんですよ」なんて会話は、普通の集団ではできない。コンロッドはブロックに穴が開いた夢を見るくらい精神衛生上悪いので、いま動いているエンジンから1本拝借することにした。

 スロットル以外は吸排気系もすべてノーマルのNA6CEに乗った。他の人は「動きが軽い!」と驚いていた。確かに踏み込んだ時のレスポンスは良いのだけれど、トルクが薄すぎる。ノーマルってこんなだったのかしら。レスポンスが良いから楽しくはあるけれど。

 今日は200キロほど運転した。これから名古屋に向かうと再び200キロほど走ることになる。途中、我がチューニングヘッドが載って1万キロを突破する予定。

11月9日

 起きたら正午だった。もちろん、今日は出勤日。職場のボスから2回電話があった気がするが、何を話したのか覚えていない。というか、2回目の電話は保留にしてしまった。電話の向こう側でも、まさか相手が布団の中だとは気付いていないだろう。ばれなければいいのだ(本当か?)。

 昨日、午後10時ぐらいから職場の先輩といつものショットバーに飲みに行ったのだ。「お帰りなさい」とマスター。他の客から変な目で見られる。いつもの席に座り、半分ちょっとをアルコールが占めるバーボンの封を開け、ストレートでかぱかぱ飲んでいた。腹が空いていたので、野菜を大量に出してもらってばりばり食べ、気が付くと、いつしか他の客がいなくなっていた。マスターが心配そうな声をかけてきたので、ボトルを見たら、指2本分ぐらいしか残っていなかった。飲み過ぎ。

 でも、記憶は飛ばなかったな。 

11月8日

 一眼レフカメラのF90が壊れた。スイッチを入れたのに電源が入らないので、おかしいなと思い、電池ボックスを外したら、落としてしまった。単三電池をまき散らしながら、電池ボックス崩壊。電源がなくなると、撮影したフィルムを抜き出すのでさえ困ってしまう。軟弱だ。FM2かFM3でも買ってしまおうかしら。どうせマニュアルでしか使っていないし、オートフォーカスも壊れている。同じことだ。

 仕方がないのでカメラ屋へ。さすがに電池ボックスの在庫はなかった。F90の拡張部品で、電池ボックスを下側に増設して、縦位置で撮影する場合のグリップとなるものが売っている。15000円くらい。3年あまりにわたる激しい使用で、三脚を取り付けるねじ穴の周辺が崩壊し始めているし、それを保護するつもりで買ってもいいかも知れないな、と思った。見た目がF4やF5みたいに渋くなるし。しかし、8万円ちょっと出せばFM3が買えてしまうのだ。

 困った顔をして立ちつくす店員の前で、カタログとにらめっこ。10分ぐらい悩んだ。電池ボックスだけでもたぶん2000円くらい取られる。この際、拡張してしまおうか…。いや、そろそろ限界が近いカメラにこれ以上お金を使うのも…。

 結局、3年間のメシの種として働いてくれた愛着にはかなわず、注文した。しかし、部品が届くのは週明け。心臓が止まったかのごとく、F90は、週明けまで沈黙することになる。手持ちのデジカメでごまかすしかない。

 カメラがない、となると、なぜか不安である。裸で歩いているみたいだ。