3月15日

 古くからの友人2人に誘われて夜、ファミレスに行く。動かなかった自作パソコンを動くようにしてあげたお礼に、ごちそうしてくれる、とのことだったからだ。

 ちょいと遅れて到着すると、すでに2人は定食を食べ終わった後だった。さらに1人は食後のデザートであるパフェをほおばっていた。パフェを食べながら「今日は俺のおごりだ、なんでも遠慮せず食べてくれ」と言うので、遠慮なくブタキムチ定食を注文する。パフェを食べ終わった友人は、僕の注文と同時にポテトフライを注文した。よほど飢えているのだろうか。

 パフェを食い終わった友人は、もう一人の友人に「お前ももっと注文しろよ」と薦める。友人は「お腹いっぱいだからそんなにいらない」と言いつつも、ミックスピザを注文しやがった。定食を喰らい終わった後なのに、テーブルにはポテトフライとピザが並ぶ。食べ過ぎだ。

 ブタキムチ定食を食べ終わってさらに残ったピザをほおばったらさすがにお腹が一杯だったのだが「もっと食べろ」という友人の薦めでチーズケーキを注文する。さらに友人はケーキを注文してしまった。たぶん、人に薦めるのだから、自分もたらふく食べるのが礼儀だと思っているんだろう。ケーキを完食したと思ったら、「うお!」と叫んで机に突っ伏した。ケーキに付いていたアイスクリームを一口で食べて頭痛がしたらしい。「さすがに腹がいっぱいだあ」と冗談を交えながら、四方山話に花が咲いた。

 しばらく会っていなくてもすぐ昔のように冗談を言い合える友人はやはりいいものだ。忘れていて欲しいことまで克明に覚えていて冷や冷やすることもあるけれど。

3月14日

 我が第2のふるさと、松本で面白いことが起こった。

 市長選で現職の市長を破って、菅谷さんが当選したのだ。時代の流れと、長野県民や松本の人たちの意識の高さを実感する。こんな面白い場面があったのに、松本に居られなかったのが非常に残念である。

 前職の有賀市長は地元農協の出身だ。並柳の農家でセロリーづくりを始め、一大産地にまで押し上げた人である。県議から市長に挑戦し、前職を破って当選したときは92票差。苦労人である。が、市長としてはかなり強引に物事を進めていた気がする。各町会長を抱え込んで、なにか懸案があればそこの地区から自分の思うとおりに陳情させる。さも、地元から起こった声のような形にして自分がやりたいことをやっていた。その典型が来週にもこけら落としになる新市民会館こと、まつもと市民芸術館。この時代に145億円もかけて建設された「オペラハウス」だ。

 なぜか松本では毎年夏に指揮者の小沢征爾がやってきて総監督を務めるサイトウ・キネン・フェスティバルという音楽祭が開かれる。小沢さんに自分が作った豪華劇場でぜひ世界レベルのオペラの指揮をしてもらいたい、と市民会館を巨大劇場に建て替えることにしたのが前市長の本音だろう。その規模は一地方都市の「市民会館」として完全にオーバースペックであった。

 福祉や環境に目が向いてきた時代だからもちろん、反対運動が起こった。が、地元町会を使った署名集めやら、信州大学の学長を使った陳情やら、さまざまな声を集めて、建設を既成事実化していき、気が付いたときには中止できないところまで進めていた。まさに、箱モノ行政の最たることをやっていた。

 開発で活性化するという手法は、1990年代までは通用した論理だったかもしれないが、すでに時代遅れだった。政治家としてのバランス感覚に長けていた人だったけれど、ちょっと感覚が古かったかもしれない。今回の選挙の結果を見る限り、松本市民が市長にだんだんと違和感を覚えるようになっていたのだろう。唯一、僕が好きだったところは、あの田中知事に真っ向から反抗していたところだ。

 菅谷さんは、お医者さんである。信州大学の外科の専門家であった。が、浅間温泉に風変わりな和尚さんがいたことでこの人の人生はがらりと変わってしまう。1990年、和尚さんと茅野の鎌田医師がひょいとベラルーシに飛んでしまう。チェルノブイリ原発がメルトダウンしたとき、もっとも放射能が降り注いだ地だ。放射線の影響が出ているという予測は当たって、すでに現地の子どもらには甲状腺がんが多発していた。和尚さんは帰国してから、地元・松本にある信州大学に助けを求めた。

 たまたま信州大学にいた菅谷さんはベラルーシに飛んでしまう。甲状腺の手術で首を十文字に切り裂く現地の古い術式を目の当たりにし、最新技術の指導を始めた。最初は日本から通っていたものの、96年からは現地に住み込んでの活動になった。若い人を自分のアパートに招いた勉強会や、患者の家まででかけての治療を地道にこなした。5年ほど現地で技術指導をしていたはずである。

 帰国したところで、田中知事に呼ばれて県の衛生部長を務めていたところまでは知っていたのだが、市長を目指していたことまでは知らなかった。どのメンツが関わったかはいわずもがな。浅間温泉の和尚さんが立候補するというウワサはいつもあったのだけれど、よくも素晴らしい人を引っ張ってきたものだ。

 リーダーが代わった松本市でどんなことが起こるか楽しみ。松本時代、ともに遊んだ福祉団体の人たちがガッツポーズしている姿が目に浮かぶ。

3月13日

 目が覚めたら午前7時だった。いかん、起きなければとごそごそと布団から立ち上がろうとして、ふと思う。「なんの用事があったっけ?」。しばらく考えて、今日は土曜日で仕事も急ぎのものがないから寝ていればよいことに気づいた。がくっと倒れ込むように意識を失う。

 次に起きたのは11時ぐらいだろうか。だるかったのでまた意識を失う。起きたら午後2時。正しい休日だ。

 栄に出て三越などを徘徊してみる。車野郎にとってはまったく縁のない品物ばかり売っている店だ。ぐるりと一周して何もないから丸善、マナハウスと回って本を物色する。といってもF1速報などを読んでいただけなのだが。

 久しぶりに何もしない休日。たまにはこんな日もあった方が良い。

3月12日

 恒例の市場へ。さっそく魚屋さんが「どうだった」と感想を聞いてくる。「むちゃくちゃ怖かった」と簡潔正直に感想を述べておく。同じ時速200キロでも、質が全然違う。市場内にある食堂でいかげそ炒めを食べる。絶品。

 ようやくあばらの痛みが落ち着いてきた。27日の金曜日にカートで130周してから悩んでいるのでかれこれ3週間痛み続けていたことになる。FJ初走行では、こんなに痛いのに大丈夫かしら、と思っていたのだが、あばらの痛さより、自分の体力のなさが問題になるとは夢にも思っていなかった。ロードスターで初めて、筑波でSタイヤを付けたときにも、走行が終わってから足が震えていた覚えがあるのだが、首に来るとは夢にも思わなかった。ま、バケットシートで支えがあるロードスターと違い、FJは支えがなにもないから余計首に来るんだろうけれど。

 これって効くんだろうかと思いながら、手足におもりを装着する毎日。

3月11日

 仕事でリニアモーターカーを見学してきた。多くの人は知らないだろうけれど、来年3月から愛知万博というイベントが長久手、瀬戸という場所で開かれる。名古屋駅から地下鉄で藤ヶ丘駅まで行き、そこで乗り換えて会場まで連れて行ってくれるのが、リニアモーターカーである。会場まで高架で結ばれているのだが、なにやら工事が始まったと思ったらあっという間に高架が立ってしまった。さすが、国家プロジェクトと感心したほどだ。

 リニアモータカーというと、山梨に実験線があるJRが開発中のものを思い浮かべるが、こちらのものは仕組みがかなり異なる。超電導で500km/h出るあちらと違い、こちらは常電導で100km/hほどだ。超と常でどう違うのかは文系人間な僕では簡単には説明できないので、おいておく。

 HSSTと呼ばれる常電導式の仕組みは簡単で、モノレールのようにレールを抱え込んだ車両の、レールの下側に電磁石が付いている。その電磁石の磁力で上にあるレールにくっつこうとする力で車体が浮上するのだ。ギャップセンサーで8ミリほどの距離を保つように電磁石の力を制御するのだという。推進力は普通のモーターを平たく伸ばしたリニアモーターで得る。

 実は9年ほど前にHSSTに試乗したことがある。名古屋市南区の大江という場所に実験線があるのだ。実験なので、万博で使われる車両よりは小さかった覚えがある。車両に乗って、浮上する瞬間を体験したのだけれど、体感できないぐらいのものだった。走行は浮いているだけあって、ウルトラスムーズ。

 余談だが4年ほど前には山梨の実験線にも乗ったことがある。時速450キロほど出したみたいだけれど、ほとんどがトンネルの中なので景色が流れていくのは見えなかったのだが、ものすごいスピードで移動している実感だけはあった。あっという間に450キロに到達したと思ったらすぐに減速して物足りなかった覚えがある。かなり減速したな、と思って速度表示を見たら、まだ290キロぐらい出ていてびっくりした。

 話がずれてしまったが、長久手町に行ったのである。ちょっと前まで愛知青少年公園と呼ばれていた場所に常電導式の「リニモ」の車庫があった。子どもの頃から親しんだ地域だったのだが、万博会場となってしまって、あちこちがはげ山状態。長久手や瀬戸の街も万博特需であちこちで開発が進んでいる。地形が変わるほど掘り返して、開発しまくっているのだから、どう考えても環境がテーマの万博とは思えない。いや、乱開発した悪い例を展示して開発のむなしさを体感できる博覧会なのか。それを前面に打ち出すのなら、少しはやる意義があるのだが。

 整備中のリニモを見ているとき、ちょうど電磁石のスイッチを入れたらしく、浮き上がるのが見えた。乗っていると分からないが、外から見るとやっぱりけっこう浮き上がっていることが分かる。ちょっと感動。

 それにしても、ここまで大規模な開発になるのだとは思わなかった。子どものころ遊び回った青少年公園の面影がほどんどなくなってしまったのを残念に思った一日だった。

3月9日

 土曜日、日曜日に備えてどうしてもロードスターの洗車しなければならなかったけれど、体中筋肉痛、体力も時間も温存したかったので、ガソリンスタンドの洗車を初体験した。

 せっかくだから手で洗うやつにしてもらおうかと思ったが、料金が高いことと時間がかかるのが嫌だったので1500円で洗車機に放り込むタイプを選択する。洗う前のロードスターは、しばらく洗っていなかった水垢と、高速道路の不凍剤でどろどろに汚れている状態。乗っている本人ですら、気分が暗くなるほどの汚れ具合であった。

 ハイオク満タンと洗車を指示して店舗内で待機。15分ほどで完了する。自分でやるとワックスも含めて一時間以上はかかるから、とっても楽である。

 あまり期待していなかったのだけれど、しつこくこびりついた汚れ以外は綺麗に落ち、さらにワックスもまあまあかかってさらに、タイヤワックスまでかけてあった。心配していたボディーの傷も見あたらなかった。ぴかぴかである。

 心配していたのが、高圧の水がかかるから、ぼろ幌から浸水して室内がぐちょぐちょにならないか、ということだったが、問題なし。1500円という安さと、自分の手を汚さない手軽さは、もしかしたら病みつきになるかも。

 これまでミーティングに出かけるときは、出かける前の日に時間をつくって洗車して、ぴかぴかにして出かけていた。が、道中でかなり汚れてしまうので、徒労に感じていた。が、会場近くのスタンドで洗ってもらえば、ぴかぴかで会場入りができる。車野郎の作法として正しいかは疑問だが、前日に時間をとらなきゃ、と暗い気分になるくらいなら、やってもらった方が早いし、結果安い。

 それでも、洗車を機械にやってもらうことが、ちょっと心に引っかかる。車野郎の倒錯したところだろう。

3月8日

 南コースを走った後とは打って変わって体はそれほど痛くはない。疲労も軽い。本コースが体に優しいわけじゃない。僕が話にならないほど遅く走っていただけなのである。サーキット見学のバスでコースをぐるりと回ったのと、なんら変わりがない。

 とりあえず、首を鍛えないと。

3月7日

 いよいよ本コースデビュー。これまで体験したことがない速度域での走行。シビアなFJ。どうなるのか、想像も付かない。

 午前6時起床。思ったよりも体の疲れは回復していた。金曜日にばててしまった原因の一つは、メシをあまり食べていなかったことがあるのではないかと思い、おにぎりをたくさん食べる。名古屋インター近くのコスモで20リットル携行缶にガソリンを買い、名古屋インターから東名阪に乗ろうとしたら、東名に乗ってしまった。引き返すわけにも行かず、春日井で降りて勝川から東名阪へ。

 途中から雪がちらついてきた。橋が凍っているほどの悪天候だ。8時前に鈴鹿西コースパドックに到着。すでに、総監督や見学の方が来ていた。ときどき雪がちらつく天候。

 自分の車が運ばれてくる。20000円分の走行券を買い、Dさんにコースの様子を教えてもらう。ちょっとした緊張が気持ちよい。

 いよいよ、走行開始。Dさんの後ろについて走っていくことにする。ゲートをくぐってコース内へ。10台ぐらいずつコースに入っていく。

 「コースインでも2速でもリアが空転するから気を付けて」とのDさんの言葉の通り、リアタイヤの空転を感じつつ、バックストレートを加速していく。すぐ130R。タイヤが冷え切っているから慎重に曲がり、加速していったら、Dさんの車が急激に近づいてきた。西コースのショットカット。右ヘアピンが控えていたのである。予測していなかったので、パニックブレーキになり、ロックしたまましばらく滑走。なんとか追突は回避したものの、曲げることができない速度でショートカットに進入。まだフルブレーキしているから、車も曲がらない。ショートカット直後においてあるパイロンが近づいてくる。止まらない。ブレーキをゆるめて何とか車を曲げて車をすき間に放り込み、事なきを得た。いや、タイヤにフラットスポットを作ってしまったから、事なきではなかった。

 気を取り直して、縁石またいでコースに戻る。ついていくはずのDさんは先へ行ってしまいもういない。2速での加速は強烈だ。あっという間に3速、4速でデグナー進入。後ろから来る車は先に行かせて慎重に走る。いや、先に行かせるまでもなく抜かれていく。ヘアピンもブレーキが少し遅れたが、車速が出ていないので大丈夫。200Rにむけて上り坂を加速する。

 200Rは上りながらゆるく右に曲がっているのだけれど、ぐんぐん加速していくからだんだん恐怖が増してくる。さすがに最初は全開にできない。そして、スプーンに向かって少しの間ストレートがあるのだが、登り切った後下っているので、車速が出ていることもあり、どこでブレーキを踏めばよいのか分からない。スプーンもどこのラインを走るのか見当が付かない。

 バックストレートに入る。まだ様子見だからそんなに回転は上げない。4速6000回転ちょっとから、ついに5速。怖いけれど、いちおう全開にする。風景が一気に流れていく。ピットが右手にあったはずだが、そんなところを見ている余裕がない。130Rがぐんぐん近づく。やばいと思ってブレーキを踏み、車を曲げようとしたら、リアが流れてスピン。やばいと思ってクラッチ切り&フルブレーキ。芝生の上を滑って後ろ向きになり、そのまま回転しながら滑走して再び前向きになって舗装の上で停止した。エンジンは止まっている。

 わりと冷静にエンジンを再スタートさせる気になった。が、セルをいくら回してもかぶり気味になっていてかからない。アクセルの踏み加減をいろいろ変えて回し続けると、ぼうんとバックミラーに炎が映った。しばらく待ってから、再び回してようやくエンジンがかかる。車が来ないことを確認してコースイン。

 最初の5、6周はブレーキを踏む場所も分からず、ただうろうろと走っているだけ。後ろからFJがぐんぐんと追い付き、追い越される。F4なんかは、来たことも気が付かないうちに爆音でその存在に気づき、すでに前を走っているという状態だ。

 ヘアピンなどで何度かスピン。何が何だか分からないまま、最初の30分は終了。チェッカーを見て気が付いたのだが、どこからピットインするのか正確には知らなかった。後ろから来た車に合図して抜いてもらい、後ろを付いていった。

 2回目の走行ではDさんに「200Rは全開」と聞いていたので、タイヤが暖まってきた3周目ぐらいに調子に乗って5速全開で走ったらラインが膨らんでしまい、スプーン進入にむけてラインを取り直そうと無理をしたら、スピン、そのままコースアウトして砂利の中に埋まった。残りの20分あまり、コースの外から他の車を見ているだけだった。

 走行後、総監督から「自分が何秒だったか見ていたか」と聞かれ、「余裕がなくて見ていない」と正直に答えた。恐怖の5速全開でヘルメットにまともに当たってくる風に対抗しながら何とか前傾姿勢を取っているのだ。視線を向ける余裕などなかった。

 3、4回目は何度かのスピンもあったけれど、何とか無事に走行終了。少し遠慮しすぎたかもしれない。毎回、きっちり課題を作って攻めていかないと、せっかく高いお金を出して走っているのに、無駄になってしまう。タイムはまだ気にする段階じゃないと言われた。

 5速全開の後の130Rは、初めての者に取っては恐怖そのものだ。4速までとは世界が変わってくる。エンジン回転とともに視野が狭くなっていき、左に緑色、ピット横を通ると右にいろいろな色が出現する。ときどき、F4が軽々と抜いていく。右手にコーナーまでの距離を示す「200」「100」「50」の数字が出てくるとともに、130Rがぐんと近づく。ここが速い人が本当に速いんだろう。

 走り終わった我が愛車は、FRP製のアンダーパネルが割れていた。どこでやったのかさえ、分からない。

3月5日

 毎週金曜日にやらねばならない市場での仕事を無理矢理都合着けて、FV/2Kのシェイクダウン。8時半すぎには鈴鹿南コースに行き、9時半からの走行に備える。

 2月4日の走行があったから、走り出しはまだ何とかなった。あ、そういえば、コースイン直後にスピンしたけれど。が、タイムを詰めようとしだしたら、体の方がついてこなかった。この数年の不摂生の結果とはいえ、自分の体のなまり具合に腹が立った。本コースはまともに走ることができないんじゃないかしら。首を鍛えないといけない。写真を撮る余裕などなかった。

 車を壊すこともなく、一見無事に終了したが、自分のなかのいろいろなものが壊れちゃったシェイクダウン。諸手をあげて喜ぶようなものではなかった。が、最初からうまく行くと思っていたわけじゃないから、課題を淡々と解決していくよりほかに道はない。

 とりあえず7日、西コースを走る。130Rでちびる予定。