7月12日

 がんばっている人に会うと、こっちも力をもらえる気がする。パワフルに生きていている若者にあった。

 某私立高校の野球部員2年生。甲子園に向けて殺気立つチームの中にとけ込んで練習しているのだが、なんと女の子なのだ。ソフトボールではなくて野球である。軟式ではなくれっきとした硬球である。身長が168センチあり、髪も短く刈り込んでいるから、ぱっと見では女の子とはまったく分からない。

 聞くと、小学生のころから男に交じって一人、野球をやってきたという。中学の部活でも野球を選んだ。熱意を買って入部させ、同じように練習させた監督にも拍手を送りたい。

 が、高校野球は一つ問題がある。規定では男しか公式戦に出られない。それでも良いからと野球をやっている。練習試合しか出られないが、代打で10打数2安打というからなかなかのものだ。

 この夏の大会では、試合には出られないから、マネージャーとしてベンチ入りするのだという。マネージャーは学校の制服姿が一般的。普段、同じようなユニフォームを着ているのに、公式戦になったらスカートの制服姿になるギャップもなかなか面白い。んが、そんじょそこらのマネージャと違い、野球を知り尽くしたアドバイスができるのは、チームにとってはありがたいに違いない。

 さすがに体力差も感じる中、男に交じってなぜしんどい練習を続けているのか。「ただ野球をするのが好きだから」とあっさり答える。実際、ボール拾いをするときも、バッティング練習するときも、楽しくて仕方がない、という笑顔をたたえている。きわめて純粋な思いに、ただ感動するしかない。

 僕も、ただ走っていれば面白い時期があった。んが、ただ走ることもいろんな意味での実力が伴わなくてなかなかできなくなっちゃった。一つのことに打ち込んでいる姿がちょっとうらやましかった。

7月11日

 布袋のまちづくりに取り組んでいる人が防犯マップを作ったというので会いに行く。

 駅前の商店街が廃れ「このままではいけない」と立ち上がった人たちである。江南の場合、今現在は古知野(名鉄江南駅前)よりも布袋の方がこうした人たちがいて元気が良い。古知野もしばらく前はいろいろなチャレンジがあったようだけれど、今はあまり動いているようなことは聞かない。疲れちゃったのかもしれない。せっかくの商店街の街並みが、シャッターを開けることもなく取り壊されてマンションになるかもしれない。それだけが心配だ。

 布袋はまだ動きがあるだけ救いがある。まちづくりの情報を伝える手書きの「かわらばん」を作っているし、お祭りもなんとか盛り上げようと四苦八苦している。それを助けるスポンサーもいたりして、これからの動き、盛り上がりに期待しているのである。

 防犯マップ自体は小中学校から不審者が出た場所を聞いてそれを手書きの地図に書いた簡単なものだ。たぶん、多くの人が「なあんだ」と思う程度のものかもしれない。が、それを手間をかけて作って配り「一緒に子どもを見守りましょう」と呼び掛けること。その声掛けがこれからの時代大切なのである。

7月9日

 各地でこの時期やっている「茅の輪くぐり」という行事を見に、祖父江町のとある神社に行くことになった。

 神社は、だいたいが昔からの集落の一角にあったりして、分かりづらい場所にあるのだが、だいたいの場所さえ分かれば、迷うことなくたどり着くことができる。こんもりと背の高い木が立ち並んでいる場所がだいたい神社か寺だ。田園地帯なら、田んぼの中に浮かぶ島のような感じなので、車で走っていればすぐ見当が付く。

 そこも古い集落の中の神社。近くに行くと、氏子の人たちが家族で歩いて神社に向かっていた。浴衣姿の人もいてすっかり夏の風情である。近くに車を止め、歩いて境内に入る。入り口に、たこ焼きやイカ焼きやおもちゃや綿菓子を売る屋台が立ち並んで正しい夏まつりの雰囲気であった。

 ちょうど、日が暮れかかっていたときで、周囲の森は徐々に暗くなっていき、木々の間から見える空もだんだんと灰色が濃くなり、それとともに提灯が明るさを増してきた。そんな境内を浴衣姿で葦を手にした家族連れが最低限の明かりを頼りに境内を進み、直径2.5メートルほどの茅でできた輪をまずくぐって左に回り込み、8の字を描くように3回回って境内に参拝していた。

 葦には人の形をした紙が付けられていて、その紙に名前を書いて、体中をこするようにして汚れを払うのだという。それを神社に納めてこの夏の無病息災を願うのだ。

 社務所では氏子の代表の人たちが、畳の上で簡単な食事を取っていた。部屋に漂う蚊取り線香のにおい。

 まさしくそこには日本の夏があった。

7月8日

 防犯活動、というのが活発になってきているようである。夕方に街を走っていると、黄色い帽子に蛍光のたすきを着けて、歩いている集団を見ることがある。岩倉では、何十人と夜に集まって、拍子木を打ち鳴らして街を見回っているところもある。市役所の車が何台か、白黒に塗られて青色回転灯を着けて走っていることもあれば、「パトロール中」と書かれたマグネットを付けて走り回っている車、自転車のかごに同じように「パトロール中」と書かれた看板を付けて走っている自転車もある。

 こういう地道な活動はやっぱり効果があって、活発になりだしたここ1年ほどは街頭犯罪が減っているらしい。さらに、こうした活動が新しい地域のつながりを生み出していき、崩壊しつつある地域コミュニティーを復活させる契機となる可能性もあって、好ましいな、と思う半面、日本もこうして常に警戒していなくちゃならない社会になりつつあることを思うと、なんだか複雑な気分になるのである。

7月7日

 七夕だ。子どもだったころ以来、七夕行事なんて無縁だったのだが、いま住んでいる地域だと7月下旬から8月上旬にかけて七夕祭りが盛大に開かれる。機織りに励んでいた織姫にちなんで、繊維業が日本の成長を支えていた時代に一気に広まったお祭りである。ここら辺には旗織り機を「ガチャ」と動かすたびに万のお金が儲かる「ガチャマン」なんて言葉が残っているくらいだから、1年に1度のお祭りは、それはそれは派手だったに違いない。

 一宮であればまだしも、江南では七夕まつりをやる意義すら失われつつあるかもしれない。高級カーテンでは日本でも有数な産地なのだが、それをする人はほとんどいない。産業として勢いがある、ということはまったくなく、有名インテリア企業の言うなりになって働くしかない、というのが実情みたい。ことしの江南七夕まつりは8月5日から。やり続ける意義があるまつりなのか、この目で見てみたい。

7月6日

 いま住んでいる江南市というところは、本当に道に迷う土地で、3月に来て4カ月がすぎ、すでに100回以上は迷っている気がする。会う人だれもがそう言うので、僕が方向音痴、というよりは、迷いやすい土地、と言い切ってしまって間違いない。

 最初は本当に焦った。どう考えてもつながらない道がつながっていて、「江南市は四次元空間があって空間がねじれているんだ」と本気で思ったほどである。よくよく地図を見ると、道が素直に東西南北を向いておらず、さらにまっすぐでなく交差点ごとに微妙に曲がっているから、ということが分かる。

 最初は本当に困った。一宮に行こうと適当に走り出したら、いつの間にか木曽川の堤防に上っていた、ということはしょっちゅうである。真っ平らな土地で、信州のように身近に山が見えないから自分がどの位置にいるのかは覚えない限り分からない。勘で走ると絶対に迷う。

 江南は犬山を頂点とした木曽川の扇状地にあり、昔の水の流れに沿ってすべては犬山方面めがけて道ができているから曲がりくねっている、という話しも聞く。そんな昔の道の形がいまだに残っている、というのはいかに行政がさぼってきて新しい道をつくってこなかったか、ということでもあると思うのだが、かえってこの時代にはこの曲がりくねった道も味があって良いかもしれない。

7月5日

 8年前の今日、ロードスターが僕のものになった。当時、松本に行く前の実家住まいで、歩いていけるところにアンフィニのディーラーがあったので、そこを通じて買ったのだ。条件に合う中古車を探していたら、該当する車が尾西市のディーラーにある、ということで、当時乗り回していたスバル・レックスの660ccエンジンをフル回転させて見に行き試乗した。欲しさ満点のこの態度じゃ、ディーラーもあまり値引きはしなかったに違いない。ま、欲しかったのだから仕方がない。1992年式NA6CEVスペシャルで5年落ち。込み込みで145万円ぐらいだった。

 若造がなぜ買えたかと言えば、原付で事故に巻き込まれて得た不労(不良?)所得があったからである。アルバイトの貯金を足せばなんとかなった。

 6月下旬に頼み、整備や登録手続きを経て、納車されることになったのが7月5日の午後であった。この日は、火星探査機のマーズ・パスファインダーが火星に着陸し、昼すぎから生中継で火星から送られて来つつある画像がテレビに映し出されていた。興奮を覚えながらテレビにかじりついていたのだが、時間となってあっさりとテレビから離れてディーラーに向かったのである。

 ディーラー前にすでに置いてあった我がロードスター。もううれしくてうれしくて仕方がなかった。幌をどう開けるのかを聞き、がばっと開けて走り出し、一度家に帰ってすぐにドライブに出かけた。走行メーターは30200km。レックスに比べてその快適さと運動性能の高さに驚き、不自然にきびきび動く足回りも、当時はただ新鮮に思った。あっという間に100kmほど加算され、異常なペースで距離が伸びていった。

 で、8年の間にこの車がなければできなかった経験、出会えなかった人たちは数え切れない。まさか、家の中でエンジンを持ち込んで加工し、積み替えちゃうなんて、この当時は夢にも思わなかった。エアクリーナーやプラグやプラグコードを変えて、わかりやしないのに、「エンジンが吹けるようになったかも」と独り、嬉々と喜んでいたものである。あ、マイクロロンも入れたことがあります。高かったが、効果は分からなかった。

 今現在200500km。車検切れ。

7月4日

 一眼レフデジカメとネットプリントで写真が相当身近になった。

 フィルム一眼レフのF90で仕事をしていたときは、現像はするけれど、ネガをそのまま機械で読み込んで送信するだけ。何千枚撮ったか分からないが、プリントしたのは数えるほどだった。ロードスターのイベントを写真に撮って、それをみんなに配ろうとしたら、いちいちフィルムスキャナーに通してデジタルデータ化する作業が手間で大変。時間はかかるはどうしても色合いが悪くて修正が必要だったり、トリミングが必要だったりと、膨大な時間を費やす必要があった。プリントして配るのはさらに大変で、ネガケースに入れて光にかざし、プリントしたいコマを探し出して、印を付けなければならないし、トリミングだって指示するのが大変。とにかく、配布やプリントは手間がかかって仕方がなかった。ま、フィルム現像ができる環境があったので、一般の人とはちと違うのだが。

 が、EOS20Dを買って環境が一変。「写真が欲しい」と言われたら、これまでごちゃごちゃしたネガの中からその1コマを探しだし、ネガケースに入れてカメラ屋に行ってプリントしてもらわなければならなかったのが、デジカメデータであれば、ネット経由でプリントを注文してもらい、依頼者に直接カメラ屋へ取りに行ってもらいお金も払ってもらえばよいからまったく後腐れも手間もなくなった。

 最近、自分と兄の結婚式があって膨大な量の写真を扱うことが多いのだが、デジカメデータばかりでかなり楽だ。フィルムならば、膨大なコマの中から焼き増しをしたいコマに印を付けてそれをカメラ屋に持っていき、プリントができたらまた取りに行く、という手間が必要だ。が、今はネット経由でデータを送信しておき、プリント完了のメールが届いたら取りに行くだけ。ああ、簡単。極楽である。これが自前のプリンタでプリントするんだったら、手間がかかるのであまりプリントしないに違いない。Lサイズで1枚30円。消耗品代や手間代、画質の差を比べれば、それほど高いとは思わない。

 良いよ、デジカメ。デジタル化。

7月3日

 一宮の仕事場で夜勤をしていたら、「ウウー」とサイレンがなったので、何事かと思ったら、仕事場から北300メートルのローソンで、コンビニ強盗があったらしい。

 コンビニ強盗はありふれてきてしまったので、それほどたいしたことにも思わなくなった(病的だ)のだが、いつも飯を買っていた場所なので、少し驚いた。けが人が出なかったのが不幸中の幸いか。

 金の回りが悪いためか、世の中が荒れてきた。常に警戒していなければならない時代になってしまったのだな、と寂しさを覚えながら、実感した。