多くの人がまったく興味がないであろう郵政民営化法案。僕は興味津々である。なぜなら、否決されて小泉さんが衆院を解散し、総選挙に突入すれば、夏休みがなくなっちゃうからである。
仕事的には選挙があった方が面白い。んが、プライベートでは夏休みは非常に大事。このジレンマにしばらく悩むことになりそう。
多くの人がまったく興味がないであろう郵政民営化法案。僕は興味津々である。なぜなら、否決されて小泉さんが衆院を解散し、総選挙に突入すれば、夏休みがなくなっちゃうからである。
仕事的には選挙があった方が面白い。んが、プライベートでは夏休みは非常に大事。このジレンマにしばらく悩むことになりそう。
愛知県体育館に向かう。大相撲名古屋場所の千秋楽。とはいえ、観戦に行くわけでなく、ある親方に会いに行ったのである。デミオで体育館に乗り付け、
土俵を横目に見ながら、観客席下の迷路のような通路を通り、支度部屋へ。あくまでも仕事である。もしかすると、琴欧州が優勝するかもしれない、という良い日だったのだが、仕事が終わればそそくさと帰るしかない。
それにしても、名古屋の中心部って異常な暑さ。逃げるようにして後にした。
家の前の植え込みに小さな鳥がうずくまっているのを発見した。僕が近づいても動く様子がないので、弱っているのかしらと思い、手を伸ばしても逃げない。逃げないどころか、指を近づけるとその上に乗ってきた。飼われているような鳥ではなさそうで、逃げないのは相当弱っているのか、と思ったので、放置したら猫に襲われたり暑さでまいってしまうと思って、一階の事務所の中に入れた。指の上でおとなしくつかまっている鳥はけっこうかわいい。
仕事があったので、事務所に置いたまま出かけることに。とりあえず、いすの上に置いておくことにした。2時間ほどして帰ってきたら、同じ場所に同じようにうずくまっている。とりあえず、水をやろうとびんのふたに水を入れて口元に近づけてやったが、積極的には飲まない。
はて、こいつをどうしようかとしばらく思案する。あまり鳥を観察することもないので、どんな鳥かも分からない。それでも、良く見ると、幼い鳥じゃないかという気がしてきた。人に対する警戒心がまったくないのも幼い証拠じゃないかしら。もしかすると、巣から飛び立つ訓練でもしていて、植え込みまで落ちてきたのかもしれない。植え込みが見える場所から親鳥が様子を見守っていたということも考えられる。
すると、僕がやった行為は親切のようで、鳥にとってはかえって迷惑でしかないことになる。外に出て上空を見回すが、親鳥らしき鳥は見えない。事務所に入れちゃってから2時間ぐらいたったから、あきらめたのか、と勝手に心配になってきた。
これはいかん、と元の場所に戻そうと思ったが、植え込みは日向になってしまっていて、そこに放置したらひからびてしまいそうなので、隣の畑のイチジクの木の枝の日陰になる場所に放した。
鳥はそれから夕方ぐらいまでそこに止まっていた。大丈夫かしら、と窓から様子を見たちょうどそのとき、鳥がばばっと飛び立ち、ふらふらと高度を上げて、なんども失速しそうになりながら西の方に飛んでいった。
なんだ、飛べるんじゃないか、と拍子抜け。鳥はふらふらしながらも、3階建ての屋根の向こう側まで飛んでいって見えなくなった。
昼過ぎ、火災現場に行ったついでに駅前の再開発組合の事務所をのぞいたら、「飯食っていけ!」と、理事長のおっちゃんが言うので、ありがたくいただくことにした。「ちょっと待っていろ」と事務所を後にし、5分ぐらいで戻ってきて唐揚げやらみそ汁やらソーセージを炒めたものやらを持ってきてくれた。
てっきり、残りものをレンジでチンして持ってきてくれたのだと思ったのだが、食べてみると唐揚げは揚げたて。なんと、ほんの少しの時間で作ってきてくれたのだ。「えっ、もう作ってきたんですか」と驚くと「早いのだけが取り柄だからね」と笑うおっちゃん。まじで格好良い。
夜勤で仕事場にいたら、消防無線がなにやら騒がしい。なんだろうと耳を澄まして聞いていると、どうも岩倉で火事らしい。住所を聞くと、中本町、というから岩倉の市街地のど真ん中である。地図で見ると、五条川沿いの住宅密集地である。やばいな、と思うが夜勤だから仕事場を離れられない。仕方がないから若い人を現場に向かわす。
とりあえず延焼はなく胸をなで下ろす。気になることがあったので、夜勤の時間帯が終わってから現場に行く。こいのぼり屋さんの駐車場に勝手に車を止め、真っ暗な五条川沿いを歩いていくと、まだ消防団の人が火種がないかどうかを調べていた。帰り道に警察に寄ったら、午前3時前だというのに副署長がいた。まじめな人だ。
朝、また早く起きて後始末をしなくてはならない。エンドレスな日々。
放置しっぱなしはいけないと思ってロードスターのエンジンをかける。キーをひねって一発始動。ほこりまみれでとてもこぎたくなってまるで不動車のようだが、まったく問題なく動くようだ。
Dジェトロだと、なんの調整もなくちゃんと動く。たぶん、スロポジ制御だと、いろいろ狂ってアイドルも不調になったに違いない。一度、セッティングを出せば季節が変わろうが問題のないDジェだが、バルブタイミングを変えると、まったくセッティングが狂う(特にスロットルの開け始め)のが玉にきず。標高の変化が苦手なのも問題がある。できたら単純なスロポジ制御で行きたいのだが、スロポジの出力が安定しないのでDジェにしてある。
そろそろ車検を通そうかしら、と思うが、月々のお小遣いが3万円。浪費を尽くした上で所帯を持ったので、車検代を家計から出してもらうのはなかなか心苦しい。
仲間とともに他愛のない話をして時間をすごす。この贅沢さ。
朝起きて、のんびりと朝ご飯を食べ、コーヒーを飲みながら、今日はどこに行くか相談する。いつもの朝は、ぎりぎりまで寝ていて、ハッと飛び起き、あわてて朝ご飯を食べてあれこれ準備して家を飛び出す、ということを繰り返しているので、こんな朝はとても貴重である。
ペンションを離れ、向かったのは名水公園。砂防ダムを工夫してつくってある水辺で正しく遊んで過ごした。ちょうど梅雨明けして、初夏特有の気持ちよい太陽光線の下ではしゃぎまくる。
昼ご飯は昔の病院を改装したそば屋で。移動は開幌で、と行きたいところだが、あいにく車はデミオである。細いタイヤを最大限使わないと、付いて行けない。
揚げナスのそばを頼んだら、カボチャやニンジンなどなど野菜たっぷりで出てきた。こんなうまいそばはなかなかない。
そこで仲間と別れて、せっかくだから清里に寄った。ごみごみした街はきらいだから素通りし、展望台に上って景色を眺める。
野辺山に寄って、一面に広がるレタスの絨毯を見たかったのだが、さすがにそこまで足を伸ばすと帰りが遅くなるので八ケ岳道路で小淵沢方面に行き、富士見、茅野と抜け、国道152号で高遠、長谷と走って駒ヶ根へ。こんな贅沢な道をデミオで走るのがもったいない。
高速に乗っても込んでいそうなので、そのまま天竜川の東側の細い道を駆け抜けて飯田に至る。飯田インターで入ろうとしたら、瑞浪のあたりで渋滞しているという情報だったので、高速はあきらめて国道153号をひた走る。
愛知県に入ったと思ったら、すぐ豊田市だったので面食らった。合併で稲武町までが豊田市になっちゃったのだ。それほど込んでなく、良いペースで走り抜き、香嵐渓へ行く手前で脇道にそれ、なかなか面白いワインディングをかっ飛ばす。愛知万博の会場の裏を抜け、国道155号で春日井、小牧を抜け、江南へ。清里を出たのが午後3時ぐらいで、江南に着いたのが8時半ぐらい。渋滞で1時間いらいらすることを考えれば、下道で正解だった。
109歳のおばあちゃんを見た。生まれたのが、明治28年。西暦で言えば1895年。日清戦争のころに生まれたというすごい人なのだ。
たとえば、終戦のころに50歳で中年だったのだからすごい。あ、もしかして、このおばあさんの場合、「終戦」は日露戦争が終わった1905年を意味するかもしれない。
なにしろ、愛知県で2番目の長寿なのだ。もっとすごいのが、まだ歩いて散歩するのが日課だということ! この年齢で外を歩ける、ということ自体、奇跡のような気がする。飯も3食きちんと食べているようだから、体力はまだまだある。そのうち、県内1番に躍り出ること請け合いである。いや、国内最長老も夢ではないかもしれない。
ふと、考えたのだが、自分より先に生まれた人がいない、というのはどんな気持ちなんだろう。僕は、絶対にそんな立場になることはないのだが、想像すると、とても恐ろしい立場だという気がするのは僕だけだろうか。
デミオのボディーがあちこち傷ついたから、直すことにした。7万5千円で買った車なので、板金屋さんに持っていくのもばかばかしい。パテと紙ヤスリと塗料で何とかするのだ。
あちこちのオートバックスやらイエローハットやらを探したのだが、デミオの色に合う塗料がない。前期型のブルーメタリックなのだが、RX7の色にもなった後期型のブルメタしかない。仕方がないから、イタリア村にいったときに、スーパーオートバックスに寄ってホルツの塗料を混ぜてもらった。2600円ぐらい。高い。
バンパーやドアの傷をやすりで削り、パテを埋める。時間がまとまって取れないから、とりあえずそのまま放置。さすがに、青色のボディーに灰色のパテが付いていると、目立つ目立つ。ポンコツ度がかなり増してしまうのだが、ま、10万キロオーバーの本当にポンコツに近い車になりつつあるのだから、あまり気にしない。
なかなか時間が取れないので、そんな状態で1カ月ぐらい走っていた。さすがに直したくなってきたので、ちょっとした時間を見てがりがりとパテを削って下地を作り、一気にスプレーで塗る。色はばっちり合っているのだが、へたくそがいい加減にやるものだから、かなりアレな出来映えである。
場所によっては塗料がたれたりざらざらになったりしたので、何度もやり直した。ぱっと見は分からなくなったが、よく見るとムラがあったり光沢がなかったりと、やはり分かってしまう。素人の限界か。
60年前の今日、江南の空から爆弾が落っこちてきた。当時は、古知野町と布袋町であるのだが。
米軍の作戦資料によれば、全国有数の軍需工場があった一宮を狙った空襲だったという。サイパン島の飛行場を飛び立ったB29の118機が、琵琶湖を経由して目標だった一宮市街地上空に到達した。しかし、当日は大雨が降る悪天候。当時のレーダーは地形を詳しく読みとれる能力もなく、目標を少し外してしまった。結果、それほど軍事的な意味もない江南に焼夷爆弾が降り注いだのである。
その空襲の名残がいまも残っている。宮後という町に安楽寺というお寺があるのだが、その門も近くに焼夷爆弾が落ちて炸裂し、中の油脂が飛び散って燃え、門が焼けかかった。なんとか消し止めたようだが、いまも、焦げた跡が残っており、消し炭のようなものだから60年たっても朽ちることなく、まるで昨日焼けたかのような生々しさで残っている。
寺の近くに住んでいた人は、家の中に爆弾が飛び込んできたという。カシャーンという音がして雨が降り込んできたので何かが落ちてきたことは分かった。翌日、明るくなってから見ると、焼夷爆弾が屋根を突き抜けて落ち、土壁を崩してその中に埋まったのだと分かった。爆弾からは油脂がしみ出していたものの、埋まったものだから火が出なかったので、火災にはならなかったという。油脂のにおいがツンと鼻を突く中、備中鍬でつついて家の外に出したと、その人は笑いながら話すのだが、ちょっとずれていたら直撃を受けていたのだから、空恐ろしい話である。
めくら爆撃だったので、被害甚大というわけではなかったのだが、そのことがかえって被害に遭った人たちを孤立させたようだ。焼け出された人たちは戦後、大変な苦労をしたという。そんなことを知っている人はもうほとんど残っていない。僕ら、新しい世代はこういう経験を十分に受け継いでいるのだろうか。