12月31日

 ががっと仕事を片付けて、最後の週は仕事もあまりしないでのんびり過ごした感じ。今年もいろんなことがあった。

 生活の変化といえば、3月に富山から名古屋に引っ越して、一人暮らしから二人暮らしになったことか。イタリア旅行も印象深かった。

 クーマックカップは第1戦の完敗に奮起して、雅久号を1から造るつもりであれこれいじった。引っ越したにもかかわらず、なぜか富山にいた1年だった。最後の2カ月はさすがに富山行きペースは落ちたけれど。

 9月の第2戦では、ライバルに対してまだペース不足だったけれども、チーム・マッサGOGO一同、そのときできたベストの走りをミスなく(少しはあった)こなしたら、ライバルと同一ポイント、同一ラップだったということで、同時優勝という結果を残すことができた。もう1回レースしたら白黒はっきりしたんだけれどねえ。

 もし3戦目があったとしたら、エンジンをオーバーホールして臨んでも、ちょっと分が悪かったと思う。でも、ミスが許されない緊張感が味わえるというのも、やはり一生懸命に臨んでくれるライバルがいるから。そういう意味では、恵まれた環境があって幸せだった。

 来年は、同一の条件のレースはたぶんなくなって、レギュレーション次第では間瀬レースはお休みすることになるかもしれない。やっぱり、仲間と一緒に戦えるところが魅力なだけに、別ステージで走るというモチベーションは今のところないかなあ。

 今度、雪かきを手伝いながら、来年をどうしていこうか考えよう。

 更新がさぼりがちになった1年だったけれども、このサイトも一応続けることができた。おつきあいいただいて、ありがとうございました。

 来年も、よろしくお願いいたします。

12月25日

 いつの間にか年の瀬。1カ月以上更新なし。まあ、人並みにこの時期は忙しいということだ。とりあえず、備忘録的にこの1カ月の覚え書きをば。

 

11月27日(土)

 まったくもって僕にふさわしくない役回りなのだが、ある資格試験の面接官を依頼されたので、がんばってやってみた。時間は1人10分程度で、志望動機とかを聞いているとすぐ時間はなくなる。会社の方針でその資格に挑戦しています、って人が多くて、そうした人は自分の考えで話すのではなくて、会社の方針を語る感じ。その人のことを聞きたいのに「弊社では」などと語るのはいかがなものかと思う。

 採点の基準、みたいなのもざっくりあって、その中に「しゃべりすぎは減点」とあった。どんな面接試験でも、自分の考えを自分の言葉で語り、聞かれたことを端的に話すのが良いみたい。

 夜は岐阜であったある全国集会の懇親パーティーに顔を出して、いろいろな人たちと名刺交換。たくさんの人を紹介してもらえて、名刺がたまるのだけれども、人の名前を覚えるのが苦手なので、顔と名前がいつまでも一致しない。懇親会の2次会にも参加して、弁護士さんとか司法書士さんと話しているうちに日付が変わる時間になってお開きになって、ホテルへ戻って意識を失う。

11月28日(日)

 全国集会のシンポジウムに顔を出す。元派遣村長さんや国会議員さんらの話を聞いて、聞きながら文章をまとめる。お昼ご飯はJR岐阜駅にて。昼から生ビールを飲んで、かなり幸せな気分。酒臭いまま会社に戻って少々お仕事をして帰宅。

12月4日(土)

 名古屋の藤ヶ丘というところにある商店街にてちょこっと仕事をしてから、名古屋駅に向かい、ミッドランドスクエア前に止まっていた高速バスの「きときとライナー」に乗り込む。砺波にて、お食事会があったので。砺波駅で降りて、国道156号沿いのマックにてパソコンを開いて仕事をしながら時間をつぶす。

 おみやげとして商店街にて買い込んだ三重県南部の海産物なんかをおつまみにしてキムチ鍋をメーンディッシュにしたのだが、珍しくお酒は一滴も飲まず。富山での滞在は6時間程度で車を運転して名古屋に戻る。

12月5日(日)

 鈴鹿クラブマンレースのスーパーFJで、Dさんが車を乗り換えて最初のレースだったので、応援に駆けつける。

 現在、スーパーFJは東京R&DのRD10Vが独り勝ちの状況。DさんもWEST07Jでがんばっていたのけれども、いかんせん、タイム差が歴然で歯が立たない。車のせいにするよりも、少々無理してでも車を変えて、同じ土俵で競い合った方がいいだろうということだった。

 金曜日の練習にシェイクダウンしたばかりで、車の色も塗り替える間もないぐらい。ちょっと乗っただけでいきなりのレースだったけれども、秒単位でタイムが上がった。同じエンジンとタイヤ。同じようなフレームと羽、カウルで勝負しているのに、これだけ違いが出るって本当に奥が深い世界。WESTは新車を展示していたけれど、さてどれだけの競争力があるのだろうか。

 レースはまあ、結果が出たわけではなかったけれども、タイムが近づいて、以前よりは前向きにレースに望めるようになったはず。来シーズンも応援に行こう。

12月6日(月)

 大阪の司法書士さんに午後2時ぐらいに電話をもらい「今日の夜、集まりがあるんですけれども、言うのを忘れてた」とのこと。特に予定もなかったので、夕方、新幹線にて大阪へ行き、中之島公会堂へ。すでにイルミネーションが輝いて、クリスマスの雰囲気だった。

12月9日(木)

 とある仕事で新幹線にて品川へ。新幹線内で弁当を食べていたら、嫌な感触が口の中に広がる。欠けていた親知らずが再崩壊したらしく、ぱらぱらっと小さな破片が出てきた。とりあえず仕事を終えて、翌日は溜池山王付近で仕事だったので、神田のホテルを予約して4時半ごろチェックイン。ネット回線もあるホテルなので、仕事を片付けるつもりだったのだけれども、妙に歯が気になる。鏡で見ながら親知らずをいじったら、ごそっと大きな破片が取れてきた。

 気分はとってもブルーになって、仕事どころじゃない感じ。不思議と痛みはないのだけれども、うがいをすると前よりはしみる感触がある感じ。パソコンを開いていても、スパイダーソリティアをやっているだけで、まったくはかどらないので、夜に神田駅前のつけ麺屋に行って腹ごしらえだけして、ビールを飲んで意識を失う。

12月10日(金)

 チェックアウト前に歯医者に電話。地元の北名古屋市で腕が良いという評判の歯医者。夕方に予約を取って、溜池山王付近でちょこっとだけ仕事をして、新幹線で名古屋へ戻る。午後5時に歯医者に出かけて、レントゲンを撮って口腔の現状をチェック。下側の親知らずが2本とも斜めに生えていて、ブラシが届かないところから虫歯が進行して片側の5分の1ぐらいが欠けちゃった感じ。もう片方もやはり虫歯。親知らずの虫歯にやられて、隣の奥歯も虫歯になっているみたい。上越市の国道8号近くのマクドナルドでポテトを食べていているときに歯が崩壊してから1年以上放置していたのだから、仕方がないか。

 歯医者さん曰く「今日、抜いちゃいましょうか」。

 親知らずって、腕の良くない歯医者に行くと「大学病院に紹介状を書きますから…」と言われてしまうことがあるそうな。また予約を取って初診料を払って、別の日に抜いてもらうってのも面倒。その場で処置してくれるってのが何よりもありがたい。まず塗り薬の麻酔を塗って、麻酔注射を打って、「効いてくるまで待合室で待っていて」と、まあ、そんな扱いの歯医者。

 口腔外科にいたという若い歯科医さんが担当。再び麻酔をぷすぷすと何度も刺したみたい。痛みは無いけれども、何となく抜かれる歯が押される感じ。器具を使って奥歯を引っ張ってみたら結構痛かったので「痛いんですけれど…」と伝えたら「えっ」ってな感じで、再び麻酔注射。ど真ん中の深いところにミートしたらしく、まったく感覚がなくなった。歯を引っ張りながら、あれこれ先生が話しているうちに、抜けてしまったらしく、あっけなく終了。親知らずを抜くというと歯を割ったりごりごりしたりと壮絶な感じを想像していたのだけれども、拍子抜けした。

 仕事があったのだけれども、奥歯を抜かれたことだし、化膿止めと痛み止めを飲んで早い時間からふて寝した。

12月14日(火)

 松本時代に散々飲んだ先輩に人を紹介してもらって、長野県の昼神温泉付近にて仕事。お昼からの仕事なので、午前中から配偶者とともに、車で出かける。

 先輩と合流してしばらくお話を聞く。今は阿智村に合併した清内路というところで観光ガイドをやっているおじさん。人生いろいろあったらしいけれども、すべてを文章に書くことはできない。

 とりあえず仕事を終えて、さあ帰ろうと思っていたらこの先輩、松本時代のように「飲みに行こうぜビーム」を発してきた。年末でいろいろ忙しいので帰ってしまって仕事をした方が後々は良いのだけれども、こっちも嫌いじゃないから誘いに乗って、夜は飯田の安居酒屋にて飲みまくる。

 ビールを飲んで、焼酎のお湯割りへ。松本時代はショットバーにてバーボン1本を一晩で開けた仲なので、やっぱり焼酎は飲んでしまわねばならんだろうと、けっこういいペースで飲む。1本空っぽになったころにはべろべろに酔っぱらっていた。

 幸いにも配偶者がいるので、助手席に乗って意識を失ったら次の瞬間、家に帰っていた。こういう飲みってけっこう幸せだ。

12月16日(木)

 とある家族の話を聞きに、埼玉県へ。川越のガストにて一通り話を聞き、東松山市へ。カメラマンと合流して、お宅に上がり込んで仕事をした。

 夜は、東松山のビジネスホテル。あまり競合相手がいないんだねえ、という感じのホテルだった。

12月17日(金)

 抜歯して1週間ということで、埼玉から戻って仕事場に寄って、歯医者へ。抜いたところがクレーターみたいになっているけれども、まったく問題なし。

 夜は、富山にいた同業他社の人たちで名古屋に異動になった人たちと飲み会。集合時間が午後9時半。かなり病的な時間だ。鶴舞のもつ鍋屋で腹ごしらえして金山のカラオケ屋に行き、午前3時ぐらいまで叫んでいつしか家に帰って意識を失っていた。

12月20日(月)

 午後から滋賀県守口市へ。米原から新幹線であとはJR。仕事が立て込んでいるので、あまりのんびりできなかったけれども、市役所から歩いて駅に行く途中、旧東海道があって宿場町の雰囲気があってけっこう良い街の雰囲気だった。どの街にも共通するように、そうしたかつてにぎわった場所から少し離れたところに広めの道路が通って、あまり人通りがなくなってシャッター街みたいになっていたのが残念。

12月21日(火)

 岐阜県高山市になった旧久々野町にて仕事だったので、朝から軽自動車にて向かう。高速を使って2時間で着くだろう、と踏んでいたら、大和−白鳥間が事故通行止め。どうしようかなと焦ったが、郡上八幡から降りてせせらぎ街道から高山に抜けて久々野へ行った。後から考えたら、事故区間だけ国道156号を走って行けばもう少し早かったんじゃないかと思う。

 3代続く床屋さんのお話を聞く。せっかく床屋さんとご縁ができたので、髪の毛を切ってもらった。仕事中の散髪。今回に限らず、散髪はきちんと仕事するために不可欠な行動なのだから、仕事中に堂々とできるようにすべきじゃないか、なんて馬鹿なことを考えていた。普段は美容室で切ってもらっているので、久しぶりに床屋さんで切ってもらったら結構新鮮。顔やひげを剃ってもらうだけでも、床屋に行く価値はあるかもしれない。

12月23日(木)

 たまりにたまっていた仕事も何とか片付いて、平穏な日常に戻った感じ。午後から配偶者と出かけて、ギャラリーを回ったり、覚王山にて街歩きをしたり。夜は東山スカイタワーに上った。名古屋の東山公園の中に立っている展望塔で、クリスマス前の夜だから、めちゃくちゃ込んでいるんじゃないか、と思ったけれども、拍子抜けするほど人は少なかった。

 標高180メートルの展望室からは名古屋の夜景が一望できて大人1人300円ははっきり言って安い。ソファで妙な姿勢で座っている男女が気にならなければお勧め。

12月24日(金)

 お昼から新幹線で東京へ。再び溜池山王にてお仕事。権力者の点数稼ぎのために、機能的に動いている組織が解体されてしまう恐ろしさを感じた。

 銀座線で銀座へ出かけて松屋にて、買い物。名古屋に戻って配偶者と合流し、丸の内のレストランへ。たまにはおいしいものを食べるのも良いもんだ。

12月25日(土)

 昼過ぎまで寝ていて、年賀状を書く。

11月23日

 駆け出し時代に大変お世話になった方の訃報が届いたので、一路安曇野市へ。

 松本へ赴任することになって、あいさつに行った晩のことがいまでも昨日のことのように思い出される。2次会に行って、なにか芸をやれ、というような話になり、長髪のカツラに口紅を付けられて、アルプスの少女ハイジを歌わされた。一緒に赴任したボスは「そこまでやらせたら最近の若者はやめるんじゃないか」と狼狽したらしいのだが、振られた僕は「やるしかないでしょ」と奮起して、裏声で「おしーえてーおじいーさんー」と絶叫したのが懐かしい。

 こうやって書いたらひどい人みたいなのだが、若い僕にでも分け隔てなく気さくに接する人間味のある人だった。北アルプスの山男たちの信頼も厚く、山関係の人脈はすごかった。

 とにかく、よく飲みに行った。飲み過ぎて、痛風になって痛い思いをしたのだけれども、「ビールじゃなくて焼酎なら大丈夫だ」といいつつ、薬を飲みながら酒を飲んでいた姿が忘れられない。太く生きたんだから悔いはないでしょう、とも思うが、まだ60歳。退職間際で、仕事のしがらみから離れて、これから第2の人生を楽しもうというときだったから、無念だったに違いない。

 当時のボスとともに穂高町へ。信州では通夜は家族だけで営むということだったので、納棺の前に会社の人たちと一緒に弔問して、小っちゃくなった顔に手を合わせてお別れをした。

11月21日

 土曜日。カニパーティーってことで、富山のおおとろ亭に出かける。

 前日に職場のボスに「富山にカニ喰らいに行くんですよ」と話していたら、ボスは高山に行くという。通り道なので、乗せてってあげることに。せっかくなので、高山のグリーンホテルにて、温泉に入ってから国道41号にて富山へ向かう。

 おおとろ亭に到着すると、リビングにはすでにカニが詰まった衣装ケースが用意されていた。「残ったら捨てるだけだから、好きなだけ喰え」とは言われるのだけれども、限界がある。それこそ最初の1匹は丁寧に食べるのだけれども、だんだん横着になってきて、足をむしってじゅるっと身を吸って後は捨てる、みたいな。写真を見ると分かると思うのだが、ゴミ箱になっている淡麗の箱に入れられたカニは足だけむしられて、ボディーは剥かれることもなく捨てられている。

 これを1度やると、そのシーズンはもうカニいらないって感じになる。たぶん、TORF走行会に来た人は、しばらくウナギはいらないって感じになったと思うし、贅沢なことなのだけれども、昨年とかは一昨年は「もうフグいらない」って感じにもなった。

 1度、体験してしまうと、同じことを再び体験したくなるのがいけないところで、今年も「フグ食べたいよね」って感じになってきちゃってたりする。

 余計なことを書いたが、カニをたらふく食べて、大量にビールを摂取して、いつしか意識を失っていた。

 日曜日。雅久号のハードトップはぺらぺらすぎて強度がなく、雪が降ったらつぶれて壊れるだろうということで、対策を施した。ロールバーに合板を渡して、隙間を発泡スチロールで埋める。リアのアクリルも壊れそうなので、余った発泡スチロールを適当にあてがっておいた。なにせ、富山は重たい雪が一晩で1メートル以上積もったりするので、対策は不可欠なのだ。

 夜はカントリーレストハウス二上へ行って、つけ麺を食べて、名古屋に帰ったころには日付が変わっていた。

カントリーレストハウス二上

11月15日

 最近、2台のパソコンの不具合を修復した。ネットサーフィンしていて、変なところをクリックしてしまったら、ウイルスみたいなプログラムを送り込まれて、何度再起動しても請求画面が消えない、みたいな。スパイウエアと呼ばれているやつだ。

 1つは、ウイルス対策ソフトのふりをする外国製のやつ。ハードディスク内を検索して(本当にきちんと検索しているのかは分からない)「問題がある。修復する場合は90何ドル払え」みたいなやつ。勝手に入り込んで画面が消えない時点で、こいつがウイルスチックなのに、ウイルス対策ソフトを装うところが何ともおかしい。こいつがやっかいなのは、画面が出ている限り、ほかの操作ができないということ。

 もう1つは、古典的なアダルトサイトのやつ。なにか、芸能人の動画を探していたら、感染してしまい「ようこそ!」みたいな画面とともに、入会料を請求してくる。無視していれば、害はないのだけれども、お姉さんの写真がばーんと出てアダルティーな雰囲気を醸し出す画面がいつも出ているのはばつが悪い。

 IPAという天下り機関があって、ここではウィンドウズの復元を勧めている。直ることは直るのだろうけれども、何となくめんどくさいし、いろいろ先祖返りして不具合が出ても困る。

IPA天下り

 どうせ、たいしたプログラムじゃないだろうと予測したらその通りだった。

 まず、ウイルス対策ソフトのふりをするやつ。起動した画面には、タスクバーも表示されておらず、「スキャンしてくれ!」みたなウインドーしか出ていない。「Ctrl」キーと「Alt」キーと「Delete」キーを同時押しして、Windowsタスクマネージャを呼び出す。「プロセス」を開くと、現在Windowsが実行しているプログラムの一覧が表示される。怪しげなプログラムが実行されていたので、「プロセスの終了」を選んだら、請求画面が消えた。

 でも、これだけでは再起動したら同じ現象が出るので、タスクマネージャの「ファイル」から「新しいプロセスを実行」を選び、「explorer」と入力する。これで、タスクバーやデスクトップのアイコンが表示され、いつものWindowsの画面になる。

 さっき殺したプロセスのプログラム名でハードディスクを検索すると、「C:\Documents and Settings\All Users\Application
Data」の中に格納されていたので、こいつを消す。さらに、スタートボタンから「ファイル名を指定して実行」を選び、「regedit」と入力してレジストリエディタを開き、このプログラムを実行している場所を探す。「HKEY_LOCAL_MACHINE\SOFTWARE\Microsoft\Windows
NT\CurrentVersion\Winlogon」のshellという値が追加されていて、このプログラム名が記載してあった。本当は「explorer.exe」を実行しなければいけないところ、別のプログラムを実行させて、コンピューターを乗っ取るイメージ。この値を消したら、元通りになった。

 もう一つのアダルトサイトのやつは、また別な感じ。純正プログラムの「mshta.exe」を利用して、htaファイルを実行させる形式みたい。レジストリエディタでhtaという文字列を探して怪しげな記載を消したら出てこなくなった。

 レジストリの改変や実行ファイルの消去は思わぬ副作用が出る可能性があるので自己責任で。

11月14日

 お昼に家を出て木曽福島へ。元レストランサービスプロのソムリエで現在は教授、そして来年4月にはブドウ農園運営と、65歳になるのにめまぐるしく経歴を変えている素敵な人の元へ。イタリアみやげを持って行くのだ。

 木曽駒高原の標高1100メートルぐらいの地点に山荘を構えていて、名古屋から毎週末に通って畑を耕すという生活。うらやましい人生。4月からは塩尻で畑を耕すから、名古屋から木曽福島に移住する形になる。

 短大のキャンパスにブドウ畑を作ってワインを醸造していたのだけれども、大人の事情で畑は廃止になることになり、植えられた800本ぐらいのブドウの木は塩尻の畑に移植されることになる。

 山荘へ訪ねていったら、標高800メートルぐらいの地点でブドウ畑を作る難しさを語っていた。ほとんど日本の北端でのブドウ畑と条件は変わらないという。4ヘクタールもの広大な土地だけ確保してあって、そこに5000本とか植える。将来はもっと広げて、ワイナリーを併設して、レストランも経営する。

 還暦すぎて、夢の実現に向けて全速力で動いている姿は、本当にうらやましい。

11月13日

 午前8時10分ののぞみに乗り、10時前には品川駅。高輪口から歩いて白金方面へ。車が通り抜けられない道を選んで歩くのが好き。

 某大学にてクレジットカードについてのシンポジウムを聞く。

 お昼は学食で食べるのも味気ないので、歩いてキャンパスの外へ。白金商店街をうろうろしてみたけれども、吸い込まれるようなお店がなかったので、再びキャンパスに戻って結局学食で唐揚げ丼を喰らった。

 夕方までシンポジウムの続き。終了後、誘われたので品川駅隣のビルの居酒屋で懇親会をして、9時前ののぞみで名古屋へ。午後11時に帰宅した。

11月12日

 仕事をちゃちゃっと切り上げて、配偶者とともに午後6時に矢場町の味仙に向かう。友人ののらくら農園さんと集合して、中華料理を喰らいまくる。台湾ラーメンの辛さは知っていたが、麻婆豆腐もあんなにスパイシーだとは思わなかった。

のらくら農園

 上前津のライブハウスにて、アコースティックのイベントを見るのだ。目当てはやっぱり風博士。5バンド中4バンド目。1バンド目の途中から入ったけれども、若い人たちの演奏は技術云々より元気がもらえて良かった。

風博士

 風博士のギター演奏とさわやかな歌声は、やっぱりこの日のバンドの中では別格で、演奏を始めれば彼独特の世界へと連れて行かれる感じ。すべての雑念が消えて世界に埋没する感じになって、すごくいやされる。

 本当は、一緒に深夜まで飲み食いしたかったけれども、土曜日は早朝から東京へ行かねばならないので、後ろ髪を引かれながらお別れして帰った。

11月11日

 サラリーマンが徒党を組んで経営者側に圧力をかける団体で、「ボーナスくれくれ」委員になったので、おじいさん方と交渉に臨む。

 こんな時代になって、以前のような水準でボーナスをもらえる会社なんてほとんどないわけで、うちの社でも例外はなく、やっぱり低い数字。それでも、もらえるだけ感謝しなければならないか。

 そんな思いは心に封印し、やっぱり働くものの代表として交渉しているわけだから「半期の労働実績からすればもう少し出すべきだ」などとやりあうわけ。

 本当は「あと何年会社があるか不安だ! あんたたちはもらえるだけもらって逃げ切ってずるい!」と大声で叫びたい気持ちなのだけれど。

11月10日

 岐阜の調理師学校でがんばっているという生徒に会いに行く。なんでも、学校の正面にあるアパートに住み、近所の寿司屋で働きながら学んでいるんだとか。今時の若者には珍しいタイプ。

 岐阜の下呂方面にある旅館の長男だそうで、調理師のお父さんの背中を見て育ち、跡を継ぐというわけでもないのだけれど、お客さんに「おいしかったよ」と言われる仕事が良いと、進路を決めたそう。1年のころから、研修扱いで寿司屋で働き、学費とアパート代の半分ぐらいは自分で稼いでいるという。

 「友だちは女の子とカラオケ行って遊んでいるんでしょう」とかまをかけたらやっぱりその通り「行ってますね」と彼。「遊びたくないの?」と聞いたら「全然」と答えていた。調理をするのも食べるのも好きで、体型にもそれが現れている感じではあるのだが、好きなことに全力投球している姿がすがすがしかった。

 最初は掃除や配膳など下働きばかりだったけれども、最近は料理もちょくちょくやらせてもらっているという。調理学校の地区コンクールで勝って、全国大会へ行くぐらいの腕前になった。まだ握らせてはもらっていないけれど、今月末にフランスに1週間ほど行って学んで来るので、それまでに特訓するのだとか。

 下校で校舎からぞろぞろ出てきた連中を見ると、やっぱり今時の高校生で、だらだらした感じ。漫然と、授業を聞いていた3年と、下積みをしながら学んでいた3年。この差はとてつもなく大きい。