11月16日

 レース後にふぬけになった一週間。とりあえず、仕事に力を入れずに鋭気を養う感じで。

 これまでならば、レースのレポートを真っ先に執筆していたのだが、スポンサー様に間瀬まで来ていただいたおかげで、なんとなく執筆のモチベーションもわかず。

 そんな中、レースで激闘を演じた上様が富山に遠征に来た。NB号のフリーダムを調律しに。何しろ、第一ヒートではスタートを失敗してぶち抜かれて、そのまま30分近く激闘を演じた相手であるのだから、ビール飲みながら、マニアックなレース話に興じたかったのだけれど、レースのために休みを取ったしわ寄せに土曜日に宿直が入っていたのでかなわず。

 あまり仕事をする気がないので、午前中に1つだけ仕事してきて、T.O.R.F.へ。「ちょうど良いところに来た」ということで、助手席でパソコンの画面をにらみつつ、セッティングに入る。

 Freedomを使っている車って、コンピューターのポテンシャルをまったく生かしていない滅茶苦茶なセッティングの車が多い中、上様のは間違ったところはなくて各部微調整で良い感じであった。それでもNB2でバルブタイミング制御があるので、分かっている人がいじる価値はある。パワーの出るバルタイはおおとろ氏にまかせて、もっぱら街乗りで乗りやすくなるようにいろいろ変更しておいた。カムが入っているエンジンだったみたいだけれど、NB2エンジンって本当に速いよね。うらやましい。

11月12日

 午後、県庁から抜け出して、遅めの昼飯として牛島のまるたかやのシナチクめんを食べて再び県庁に戻り、デミオから降りたら「ああ、どうも」と声をかけられた。ぱっと見でだれか分からなかったのだが、富山市善名に住む総曲輪のバーのマスターだと思い出して「昨日は迷惑を掛けまして…」とごあいさつ。

 耐久レース翌日、体育会系の後輩が生ぬるい殺気を発しながら「どうですか」と聞いてきたので、ももとかの筋肉痛を抱えてぼろぼろの体ながらも、そういえば職場の人数を減らされて宿直が増えたから最近あまり飲んでいないな、と「よし、行くか」と言ったのが間違いの始まり。居酒屋でビールをしこたま飲んだ後に、覚えていないのだがどうもバーに寄ったらしく、気がついたらカウンターに突っ伏して寝ていた。

 幸い、もう1人だけおばちゃんのお客がいたのですっごく迷惑、という状況ではなかったのだが、午前3時近くまでバーのカウンターの片隅を占拠していたという後ろめたさが残っていた。

 そんなマスターがなぜか昼間の県庁にいたのだから、こちらはたじたじもの。お昼は違う仕事をしているのかな。

11月11日

 クーマックカップも終了。ファイナルラップでシビックにぶち抜かれて2位になって傷心気味。まだまだ未熟だな。

 第2戦の裏参戦記を書き終わる前に第3戦が終わってしまったわけで、放置ぶりにあきれてしまう。ま、ちょこっと忙しかったから仕方がないか。

 細かなレポートはぼちぼちっと書くことにして、第3戦は3位、年間シリーズ2位の結果で締めくくった。1番はシビックなので、ロードスター勢ではトップ。昨年の最終戦から参戦したことと考えれば、この上ない結果を出すことができた。もうね、冗談抜きで本気だったから。「勝つためには何をすれば良いか」とずっと考えていた1年でした。

 年間シリーズのトロフィーが1位しかなかったことに、かなり残念でブルーだったりする。

 金と時間を使ってレースに出るだけなら簡単なのだが、ロードスター好きが集まって同じ土俵で同じレベルで競争しあうって、人生の中でもなかなかできない経験だと思う。だって、軽くして足回りやっただけのNA6CEが14インチラジアルで間瀬を1分13秒で走っちゃうんだから。草レースでここまでレベルが高いってのもたぶん、なかなかないんじゃないだろうか。

 一緒に闘ったチームメート、応援してくれた仲間はもちろん、本気で闘うことができたライバルたちにも感謝の気持ちでいっぱい。

 ライバルは来年の参戦を見送るらしい(シーズンが近づいてくるとまたやりたくなるかもしれないけれど)。ライバルがいないレースって張り合いがないな〜と、今後の方向性を考えている今日この頃。

11月8日

 いよいよ、明日がクーマックカップの最終戦。第2戦であちこちが痛んだ雅久号も全部直して臨戦態勢。9月10月と忙しかったが、足回りをいじったりして戦闘力も向上させた。先週のSTAGE走行会でテスト走行もしたし、準備万端である。

 油脂類は先週の走行会後に交換して、タイヤも裏組みした。走る準備はほぼできていて、あとは、板金した左側のステッカー張りや、洗車、足回りの増し締めとか。今日は、お昼過ぎに出動して、間瀬の第2ヘアピンの縁石の切れ目に落ちたはずみでドライブシャフトと干渉して曲がったマフラーの修理など、細々とした作業をする。ライバルチームの動向も見て、不本意ながらあるパーツを付け加える。

 ばっちり完成した雅久号を見ていたら、ふつふつとわく闘志とともに気持ちよい緊張感が。とりあえず、寝ないとレースに集中できないから、今は早めに帰宅してほてった体をビールで冷やして、意識を失う寸前だったりする。

11月3日

 関係各位には大変、ご心配(心配なんかしてない?)をかけましたが、クーマックカップ第3戦、無事出場できる運びとなりました。正式には、10月30日の麻生首相の演説で決まった感じ。

 ということいでさっそく、1日のSTAGE走行会に参戦。今回、いろいろいじったので試走である。ブレーキも足回りもごにょごにょもいろいろ変えたから、けっこう走りが変わっていると思われた。

 ちょっとは違うだろうと思って、コースインしていつものように走ったら、本当に変わっていてびっくり。味付けが変わった感じなんだけれど、今までの感覚とかなり違うのにものすごく違和感を感じて、すぐにピットイン。チームメートのこにやんに現象を話しながら頭を整理し、ちょっとだけセッティングを変えてコースインしたら、まだましになった。

 味付けが変わったと言っても、走り方が変わるわけじゃないので、慣れれば良いだけだ。STAGEのT氏の配慮で3クラスあるうち、2クラスの枠であれば自由に走って良いとのことだったので、走りまくることができた。

 が、いろいろな車が走っているので、なかなかクリアラップが取れず。しかもブレーキの変更でちょっと不具合があって、詰めた走りはできなかった。それでも、目安になるタイムは出て、車自体のフィーリングは良いからレースでは強いはず。シビックには届かないけれど。

10月30日

 日曜日。10月で2回目の休みをもらったので、久しぶりにツーリングに行く。といっても、雅久号ではオープンにもできないし、つらいだけなので富山のロン様の助手席に乗せてもらう。

 富山、石川のろどすたクラブの合同ツーリング。目的地は富山、岐阜両県にまたがる有峰林道だ。

 天気は良くなかったが、ぎりぎりオープンにできるぐらい(やせ我慢)。国道41号で飛騨市へ向かい、国道471号へ曲がって南側から有峰に進入するコース。

 助手席は物足りないかと思ったが、これがとっても気分が良かった。休みがなくてストレスがたまっていたのも、スカッとした気分。松本時代に狂ったようにドライブに行っていたのも、やはりストレス解消のために必要だったのだなと改めて思った。

 ツーリングロードスターが欲しい。

10月23日

 午前3時前に携帯電話がけたたましくなって起こされた。さっき寝たばっかりだというのに、睡眠中断。

 1週間の休みをもらってうらやましいな、と話していた東京・練馬のK氏が「今から行くと5時間ほどで着くようだが」とメールしてきたのが午後10時前。高速バスかなんかで富山まで来るのかな、と軽く考えて「本当に来たら電話入れて。着信音を大きくしておくから」と返信して寝た。車を運転して、上信越道から北陸道で本当に5時間後に来やがった。若干、予想外。

 総曲輪のあたり行けばお店が開いているかな、と思ったが、なんか安っぽいバーしか開いていなかったので、コンビニでビールを買い込んで自宅で飲むことに。独り暮らしなのに妙に大きな食器棚と洗濯機と電子レンジなんかがあるね、とちょっと笑えない突っ込みを受けつつ、汚い独り住まいのうちで富山のかまぼこなんかをつまみながら酒を飲みまくる。

 Youtubeを見ながら、堺正章とか岸部一徳とか、萩原健一とかの音楽性ついて語り合ったりして、マニアックな話を炸裂させながらビールを飲んでいたら、いつの間にか外が明るい時間帯に。いつしか、意識を失い「おい、10時半だぞ、仕事なんだろ」と一度起こされたのだけれど、睡魔が襲いかかって再び意識を失った。K氏は起きてライトレールに乗って岩瀬に向かったらしい。

 昼過ぎに起きて、着替えて出勤。この2カ月、休みをろくにもらっていないので、働くモチベーションはゼロ。「昼飯食べた?」と、競輪に興じていたK氏にメールしたら「まだ」との返事。仕事もまったくせずに、富山の偉大なるB級グルメ、西町・大喜に連れて行く。

 「富山ブラック」の味は相変わらず塩っ辛くて微妙。ま、昼はジャンクな飯を食べて夜、おいしくなってきたお魚を食べよう、ともちかけたら「松本に転進したい」とのこと。せっかく東京から富山まで来たのに、お魚を食べずにかまぼこと富山ブラックだけで去るなんて、まともな人間じゃないよと警告したのだが、どうも腰をゆっくり落ち着けられない性格みたいで、国道41号を南下していった。

 衆議院が解散になったらたぶん、東京に行くことになるだろうから、また練馬を襲撃することにしよう。

10月21日

 走行会は無事終わったらしい。「らしい」というのは、最後までいられず、仕事に向かったからである。

 主催者側の立場として走行会で大事なのは、参加者に事前に示した時間だけ、思う存分走ってもらうことだ。そのためには、コースインの時間やチェッカーの時間をコントロールする要員が必要になる。なので、お手伝いではもっぱら、時計をにらんで場内アナウンスを担当した。

 走行会の運営の傍ら、スキを見て走る。まずは、ブレーキパッドを新調した雅久号。高価なレーシングパッドで効き過ぎの感じであったのだが、おわらサーキットでは若干走りにくいけれど、間瀬ではなんとかなりそうな感じのフィーリング。んが、タイムはやっぱり1秒をどこかに忘れているようで、鳴かず飛ばずで、再び涙目になったのであった。

 1番の懸案は、TORF準デモカーのセッティング。NB2エンジンを積んで、純正のインマニが手に入らなかったから4連スロットルを取り付けた、という仕様のエンジンのセッティングをしたのだが、ナンバーがない車なので工場で空ぶかしだけをして、元祖雅号の4スロのセッティングのデータを参考に、実走もなくかなり脳内チューンなセッティングを施した。

 NB2のエンジンなのだけれど、NB1用のFreedomで回さなければならないという状況でセッティングをした。本来ならば、インテーク側のカムが動いてぐいぐいとバルタイを変えるのだけれど、コンピューターが非対応なので、固定バルタイのままのエンジン。遅いか早いかよく分からない仕様で不本意なのだが、セッティングのためには分かりやすい状態でセッティングを取ることができた。

 で、走ってみた本人にフィーリングを聞いたところ「問題ない」とのこと。ハーフスロットルのときとかに、薄くてがくがくしないかと心配していたのだが、問題がないという。セッティングした本人が信じられないので、乗せてもらうことに。

 人の車なので軽く流すだけ。いろいろ試して走ってみたけれど、本当に問題がなかった。素晴らしき、脳内チューン。数万キロも走ってセッティングをしてきた経験が生きたと言えよう。ま、サーキット限定の車だからそれだけ詰めたセッティングが必要になる領域も少ないんだけれど。

 で、ネタを持ち込んだお昼。今年はこれだ。

 うなぎの蒲焼き10キロ。ネタみたいなあまりの量に、さすがに余るかな、と思ったら好評を博してほぼなくなってしまった。

10月18日

 明日はT.O.R.F.の走行会。おわらサーキットを貸し切りにして、初心者から変態上級者までが1日中、走りまくるのである。

T.O.R.F.変態

 知事選の投開票日と重なってしまったため、問答無用でお仕事。が、夜からのお仕事となるので、夕方まではサーキットにいることができる。昨年は雅久号のシェイクダウンだったこともあり、もっぱら走っていたけれど、今回は夜に体力を残しておかねばならないので、お手伝いに専念することにした。

 で、この走行会の名物が、お昼のバーベキュー。走るのが目的なのか、食べるのが目的なのか、いまいち分からないところがあるのだけれど、豊富な食材が用意されてじゃんじゃん食べることができる。

 そこで、今年もネタを用意。名古屋の魚屋さんにお願いして(いつもお世話になっています)魚関係を送ってもらった。去年は伊勢エビが大量に届いてぶった切ってあぶって食べたのだけれど、今年何が届くかは当日のお楽しみと言うことで。

 当日エントリーは無理っぽいが、見学は自由(入場料500円かかる)。お昼のバーベキューだけ参加ってことも1000円でできるようなので、ロードスター好きでお暇があったら、足を運んでみても損はない。変態上級者の人たちの走りを見たり、個性あふれるロードスターを見るだけでも楽しいはず。

変態

 雅久号も並べるだけ、並べておこうっと。

10月14日

 13日。1カ月ぶりに1日丸ごと休めそうだったので、おわらサーキットに行くことに。第2戦の傷を早々に直して走れる状態にしたのは良かったのだけれど、走りに行く暇がなくて1カ月放置。蜘蛛の巣が張ってた。

 とりあえず、最終戦では1回でもトップチェッカーを受けることを目標に、足回りにも手を入れた。右前のアームも丸ごと交換しているので、1からセッティングを取らなければならない。

 あ・そっかーという中古車雑誌の冠が付いた走行会が予定されていたので、込んでいてまともに走れなさそうだったら帰ってこようと午前9時前におわらサーキットに到着したら、3台だけ。ラッキーと走ることに。

 3周ぐらいアタックして挙動を確かめて、ショックの減衰などをいじるのを何回か繰り返し、割と早くバランスを取ることができた。フィーリングも上々。が、乗りやすくなっていったにもかかわらず、肝心のタイムだけはまったく伸びなくてブルーな気分。本来なら、もう1秒は確実に削らないといけない気がする。

 まあ、狙いは間瀬だから、と強がりを言いつつ、半分涙目になった走行なのであった。