10月17日

 一日中「三四郎」ばかり読んでいて、本当に目が痛い。頭が痛い。ディスプレーばかり眺めていると、失明しそう。

 三四郎は仕事で否応なく読まされているものの、改めてじっくり読むとこれがなかなか面白いのだ。1世紀前に書かれたとは思えない。人間の進歩が100年でほとんどないのだか、ただ僕がほかの人より1世紀遅れているのだか知らないけれど、構成や細かい描写でとても感心する箇所がたくさんある。

 物語は、まあ、恋愛小説だ。列車の中で、子持ちでダンナが中国に行ったまま帰ってこない若い女の人と偶然に向かい合わせで座ることから始まる。なぜか、行きがかりでその女と同じ宿の、しかも、同じ部屋の、さらに、同じ蚊帳の下!で寝ることになってしまった三四郎が、何も手をださなかったら「度胸がないわね」と人間以下の、ひどい言葉遣いで、最低のあしらいを受ける。奇抜な挿話だ。

 たった23歳の三四郎は、それをいつまでもだらだら引きずる。当時で言えば新しい種類の女性に出会い、好きになっちゃうのだが、田舎から東京に出てきたばかりの古い種類の人間である三四郎は、名前も知らない列車女のトラウマもあって、なかなかアタックできない。ぼやぼやしているうちに、その女の人は知らない男といつの間にか結婚してしまうという話である。滅茶苦茶だ。

 漱石さんはイギリスへ留学した経験がある、当時の一級の知識人だ。どうも東洋人として西洋人にかなりの劣等感を抱いていたらしいことが、行間からひしひしと伝わってくる。新しいタイプの女性にきりきり舞いしてこてんぱんにやられてしまう三四郎の姿は、イギリスに行ってカルチャーショックを受け、散々な目に遭った漱石に重なるのかもしれない。

 時代を感じさせる部分はたくさんある。家父長制、差別、女性蔑視表現の雨霰。当時はとってもハイカラな小説も、そこだけ見るとやはり古い。