ある場所で強烈なにおいを嗅いでしまった。あまりにも強烈すぎて、しばらく鼻がおかしくなってしまうぐらいのものであった。
においの発生源は、耳鼻科のお医者さんが持っていた道具であった。世の中にはにおいがまったく感じられなくなる嗅覚障害の人がいる。主に中高年の人が多いのだが、蓄膿症からにおわなくなったり、風邪を引いたときに突然、においがなくなったりするのだという。事故でむちうちになったときも、鼻と脳をつなぐ神経がぶちっとちぎれて臭わなくなることがあるのだそう。
コーヒーなんて香りを楽しむようなものなので、鼻が利かなければおいしくないだろう。牛乳が腐っているかどうかも分からない。車野郎であれば、オイル臭やさまざまなにおいで、車の調子を判断する。ガソリンが漏れていて危険な状態でもにおいがしなかったら分からない。においは化学物質。それを感知するためのセンサーである嗅覚が壊れてしまったら、危険が近づいていても分からない、という危ない状態になるのだ。
そんな嗅覚障害の人が、どれだけにおわないか、を測定するためにさまざまなにおいを封じ込めた試薬がある。かなり専門的な病院じゃないと置いていないらしいのだが、興味本位に見せてもらったのである。
その試薬はA4版ぐらい、ちょうど麻雀を入れておくぐらいの箱に、ずらりと並んでいたのだが、開けた途端に、この世の物とは思えないようなきっついにおいがただよってきた。なんのにおい、と表現できないぐらい、いやなにおいである。「バラのにおい」という爽やかなにおいもあるのだが、「野菜が腐ったゴミ箱のにおい」「汗くさい、古い靴下のにおい」なんてものもある。試薬はふたがしてあるのだが、少しずつ成分が揮発して箱の中にたまっていたのだろう。それらのにおいが一緒くたになって鼻に飛び込んできたのだから、これは、たまらない。一瞬めまいがするぐらいである。
災難はその後も続いた。ふとした瞬間に、強烈なあのにおいがにおってくるのである。たぶん、嗅覚を感じる細胞が馬鹿になっちゃったんだろう。直後は、なんのにおいを嗅いでも、そのにおいしかしなかった。セルフスタンドでガソリンを給油したとき、ガソリンが気化した強烈なにおいを嗅げば少しは収まるだろうと、給油口をくんくんしたら、におってきたのは、ガソリン臭ではなく、まさしく先ほどの強烈なにおいがしたのにはさすがに焦った。もちろん、ガソリンの臭いがしていたのだろうけれど、それを感じる僕の嗅覚神経が完全にくるっていたに違いない。
さらにその後である。二上山のお店でおいしいものを食べているのに、ふとした瞬間、食べ物からそのにおいがするのである。せっかくのごちそうも、台無しだ。鼻に水を注入して洗いたい気分にさえ、なった。さすがに翌日までは続かなかったが。
お医者さん曰く、「服に付くとイヤなんですよ。ずっとゴミ箱の臭いがするんです」。いつもゴミ箱のにおいがしている白衣のお医者さんを想像して、笑ってしまった。