彫刻家の人に会った。西春町の畑に、長崎の六方石でできた高さ2メートルの彫刻を置き、石の上と畑にひまわりをたくさん植えた。種から植えたひまわりが、育って枯れるまでが作品というわけである。
石の彫刻は屋久杉をイメージしているという。屋久杉の大木でできた森の中は、うっそうとして暗く、新しい植物はなかなか生えることができない。ところが、屋久杉が枯れて倒れたり、切られたりすると、それまでその大木が覆っていた部分に日が差し込んで、さまざまな植物が一気に芽吹く。そして再び屋久杉の大木が生まれ育って行くのが「倒木更新」という現象。畑の作品は、それを彫刻とひまわりで表現しているのである。
もともと、さなぎからチョウが生まれたり、種から大きな大木に育ったりと、生き物の変化をテーマに作品を作ってきたという。話を聞きながらふと思う。生き物は生まれてからぐんぐんその姿を変えていくものなのに、彫刻の作品という形でその姿をとどめた瞬間にそれは永遠に姿を変えない。この矛盾。ひまわりは、なかなか良いアイデア。
文章も同じ矛盾を抱え込む。ある現実を文章にとどめようと、テキストに落とし込んだとしてもそれは現実を表現しただけで現実とは違う。そんな不完全なものが大量に印刷されてばらまかれている。本当にこんなことで良いのだろうかといつも悩んでしまう。