60年前の今日、江南の空から爆弾が落っこちてきた。当時は、古知野町と布袋町であるのだが。
米軍の作戦資料によれば、全国有数の軍需工場があった一宮を狙った空襲だったという。サイパン島の飛行場を飛び立ったB29の118機が、琵琶湖を経由して目標だった一宮市街地上空に到達した。しかし、当日は大雨が降る悪天候。当時のレーダーは地形を詳しく読みとれる能力もなく、目標を少し外してしまった。結果、それほど軍事的な意味もない江南に焼夷爆弾が降り注いだのである。
その空襲の名残がいまも残っている。宮後という町に安楽寺というお寺があるのだが、その門も近くに焼夷爆弾が落ちて炸裂し、中の油脂が飛び散って燃え、門が焼けかかった。なんとか消し止めたようだが、いまも、焦げた跡が残っており、消し炭のようなものだから60年たっても朽ちることなく、まるで昨日焼けたかのような生々しさで残っている。
寺の近くに住んでいた人は、家の中に爆弾が飛び込んできたという。カシャーンという音がして雨が降り込んできたので何かが落ちてきたことは分かった。翌日、明るくなってから見ると、焼夷爆弾が屋根を突き抜けて落ち、土壁を崩してその中に埋まったのだと分かった。爆弾からは油脂がしみ出していたものの、埋まったものだから火が出なかったので、火災にはならなかったという。油脂のにおいがツンと鼻を突く中、備中鍬でつついて家の外に出したと、その人は笑いながら話すのだが、ちょっとずれていたら直撃を受けていたのだから、空恐ろしい話である。
めくら爆撃だったので、被害甚大というわけではなかったのだが、そのことがかえって被害に遭った人たちを孤立させたようだ。焼け出された人たちは戦後、大変な苦労をしたという。そんなことを知っている人はもうほとんど残っていない。僕ら、新しい世代はこういう経験を十分に受け継いでいるのだろうか。