4月4日

 ここ2日で一気に桜が開花し、松川べりの桜も満開寸前に。県庁に行こうと思ったら、松川沿いの道路が渋滞しててびっくり。普段はそれほど歩行者のない川沿いも、散歩に来た人たちであふれかえっていた。やっぱり、日本人はみんな、桜が大好きなんだねえ。薄暗くて雪と闘う冬を乗り切ってきたからこそ、富山の人たちにとっては桜の下の散歩は格別な喜びなのかもしれない。

 陽気に誘われて僕も松川べりを歩いた。気温が下がったこともあって、太陽がちょうど気持ちよくぽかぽかさせてくれて散歩するには良い気候。松川の遊覧船もにぎわっていた。今日はこんな感じ↓。

 多くの人たちが歩いていた松川べりだが、県庁や市役所のある場所を含めて、昔は神通川だったってことは、やっぱり富山県人だったらみな知っている基礎知識なのだろうか。僕は、昭和初期の時代に壮大でダイナミックなまちづくりが繰り広げられたこの話を知って、富山ってすごい土地だと感心したものである。富山のまちづくりはライトレールに始まったわけではないのだ。

 県外の人のために簡単に書いちゃおう。Googleなんかで地図を見ながら読むとわかりやすいかも。

 今でこそ、大沢野あたりから一直線に流れている神通川(県外の人が聞くとイタイイタイ病を思い浮かべるよね)だが、昔は今の県庁の真西あたりで東に折れて、富山城の北側を通って富山駅をぐるりと巻くように蛇行していた。松川といたち川は旧神通川の名残。富山城は神通川を背にし、流れを防御に利用していた。

 県庁の真西に「舟橋」という地名があるが、昔は神通川に鎖でつないだ小船をずらりと並べて川を渡る場所だったのだ。蛇行しているものだから、大水が出るとすぐに町が水浸しになるのが悩みの種だった。

 そこで、対策に乗り出したのがオランダ人技師のデレーケ。この人は、常願寺川も治めてくれた富山県というか日本の河川の恩人だ。この人の発案で、蛇行している部分を一直線にショートカットすべく、今の神通川が流れている場所に浅く細い溝を掘った。いきなり水が枯れたら困ることも起こるので、洪水が起こったときだけその溝に流れるようにして、自然の水の力で溝が広がって河道が一直線になるよう仕組んだのである。

 溝ができたのが明治36年で、神通川一直線に流れるようになってきたのが大正に入ってから、というから気の長い工事である。

 で、きちんと堤防も作って蛇行していた部分は完全に干上がり「廃川地(はいせんち)」と呼ばれる荒地に。昔川だったところだから、へこんでいるし、岩がごろごろしているしで、依然と橋を渡らねばならないぐらいで、利用方法はない。

 知恵を絞って考えられたのが、運河を掘って、その土で廃川地を埋めてしまおうというアイデア。そして掘られたのが富岩運河だ。洪水対策をした上、工場を立地するための運河づくりと、川を埋めて広大な土地づくりまでしてしまったのだから一石三鳥なのだ。

 全国初の都心区画整理事業が昭和5年から始まり、4年間で終了。県庁がその新しい土地に完成したのが昭和10年。地図上を追うと松川といたち川そばの道の形で神通川の河川敷だった場所が分かる。県庁をはじめ、市役所や電気ビルのほか高校や赤十字病院などなどまちづくりに欠かせない施設がずらりと並んでいるのが分かるはずだ。

 廃線寸前だった富山港線をライトレールに生まれ変わらせた最近のまちづくりにも感動したが、こういう「ウルトラC」ができる素地は、富山大空襲後の復興も含めて、脈々と受け継がれてきたのだ。