3月14日

 我が第2のふるさと、松本で面白いことが起こった。

 市長選で現職の市長を破って、菅谷さんが当選したのだ。時代の流れと、長野県民や松本の人たちの意識の高さを実感する。こんな面白い場面があったのに、松本に居られなかったのが非常に残念である。

 前職の有賀市長は地元農協の出身だ。並柳の農家でセロリーづくりを始め、一大産地にまで押し上げた人である。県議から市長に挑戦し、前職を破って当選したときは92票差。苦労人である。が、市長としてはかなり強引に物事を進めていた気がする。各町会長を抱え込んで、なにか懸案があればそこの地区から自分の思うとおりに陳情させる。さも、地元から起こった声のような形にして自分がやりたいことをやっていた。その典型が来週にもこけら落としになる新市民会館こと、まつもと市民芸術館。この時代に145億円もかけて建設された「オペラハウス」だ。

 なぜか松本では毎年夏に指揮者の小沢征爾がやってきて総監督を務めるサイトウ・キネン・フェスティバルという音楽祭が開かれる。小沢さんに自分が作った豪華劇場でぜひ世界レベルのオペラの指揮をしてもらいたい、と市民会館を巨大劇場に建て替えることにしたのが前市長の本音だろう。その規模は一地方都市の「市民会館」として完全にオーバースペックであった。

 福祉や環境に目が向いてきた時代だからもちろん、反対運動が起こった。が、地元町会を使った署名集めやら、信州大学の学長を使った陳情やら、さまざまな声を集めて、建設を既成事実化していき、気が付いたときには中止できないところまで進めていた。まさに、箱モノ行政の最たることをやっていた。

 開発で活性化するという手法は、1990年代までは通用した論理だったかもしれないが、すでに時代遅れだった。政治家としてのバランス感覚に長けていた人だったけれど、ちょっと感覚が古かったかもしれない。今回の選挙の結果を見る限り、松本市民が市長にだんだんと違和感を覚えるようになっていたのだろう。唯一、僕が好きだったところは、あの田中知事に真っ向から反抗していたところだ。

 菅谷さんは、お医者さんである。信州大学の外科の専門家であった。が、浅間温泉に風変わりな和尚さんがいたことでこの人の人生はがらりと変わってしまう。1990年、和尚さんと茅野の鎌田医師がひょいとベラルーシに飛んでしまう。チェルノブイリ原発がメルトダウンしたとき、もっとも放射能が降り注いだ地だ。放射線の影響が出ているという予測は当たって、すでに現地の子どもらには甲状腺がんが多発していた。和尚さんは帰国してから、地元・松本にある信州大学に助けを求めた。

 たまたま信州大学にいた菅谷さんはベラルーシに飛んでしまう。甲状腺の手術で首を十文字に切り裂く現地の古い術式を目の当たりにし、最新技術の指導を始めた。最初は日本から通っていたものの、96年からは現地に住み込んでの活動になった。若い人を自分のアパートに招いた勉強会や、患者の家まででかけての治療を地道にこなした。5年ほど現地で技術指導をしていたはずである。

 帰国したところで、田中知事に呼ばれて県の衛生部長を務めていたところまでは知っていたのだが、市長を目指していたことまでは知らなかった。どのメンツが関わったかはいわずもがな。浅間温泉の和尚さんが立候補するというウワサはいつもあったのだけれど、よくも素晴らしい人を引っ張ってきたものだ。

 リーダーが代わった松本市でどんなことが起こるか楽しみ。松本時代、ともに遊んだ福祉団体の人たちがガッツポーズしている姿が目に浮かぶ。