月: 2011年3月

3月31日

 この世に発生した日だ、と毎年のように書いてきて、そんな日を独り過ごす寂しさをまぎらわしてきたのだが、今年はどうもばつが悪い。

 さかのぼること10日前。学生時代の友人が、東京から脱出してきた。震災疲れで彼曰く「パンが売っていない。パンが食べたい」と名古屋まで来たそう。ものすごく高いパンだ。パンを食べに来たついでに、旧友たちと名古屋駅前にて飲もう、とそういう流れになった。

 配偶者は仕事だったので、居酒屋で合流することに。地震の報告会が佳境になったそのとき、配偶者が到着。なんとお花を抱えているじゃありませんか。仕事場で「お誕生日おめでとう」と渡されたという。そのときまで、すっかり頭から抜け落ちていた。その日が、配偶者の誕生日だったということを。弁解すると、仕事で地震や原子力について真剣に考えすぎていて日にちの感覚がまったくなかった。

 その事実を知った瞬間、表情は消え去り、あんぐりと口が大きく開いていたと思う。

 後日、ケーキを買ったり食事に行ったりとフォローはしたのだけれども、当日言われるまで気づかなかったという事実は消せないわけで。ワタシ、気にしていないからと、怒っている感じでもないけれど、やっぱり怒っていそうな。冗談で言っているのか、本気で言っているのか。たぶん、両方だ。

 だから、10日後に自分の発生日を迎えようが、何となく自宅に帰っても窮屈な感じ。「おめでという」と言ってくれる配偶者。純粋に祝ってくれていることは間違いがないのだけれど、僕の中の後ろ暗さが純粋にその言葉を受け止められない、みたいな。

 冷や汗かいた発生日。

3月29日

 原子力災害が終息するめどが立たない。マスコミでの決まり文句は「健康に影響なし」。みんなが不安に思っていることについて、マスコミが一律に同じことを言うときは、疑った方が良い。そもそも、専門知識があって報道しているわけじゃないのだから。

 発表された情報を横書きから縦書きに書き換えて、右から左に速やかに伝えるスキルにはたけているのだが、そもそもその情報が正しいのかどうかを検証するスキルについては、低いと言わざるを得ない。そもそも、起こっている事象について、物事を知っている人に意見を聞いて書く仕事なので、政府や東大教授が言ったことは、どうしても垂れ流しになりがちだ。

 文系人間で放射線のことなんてあまり理解していなかった僕だけれども、ネットでいろいろ調べて学んでみた。で、本当に「影響なし」と言い切ってしまっていいんだろうか、と考え込んでしまう。少なくとも、福島県内の線量が高い地域からは、女性や子どもは離れた方がベターだと思うのだが。僕自身は、線量計でも持っていけば、福島の避難地域近くに分け入って仕事をしてもいいと考える。そのうち、そういう機会もあるかもしれない。

 事実を伝えることによるパニックと、伝えなかったことによる後々の被害と、どちらが社会的にマイナスになるんだろう。地球規模の環境変動を計算できるスーパーコンピュータがあるのに、だれも放射性物質が日々どの方面へ濃く飛んでいるかを計算して公表してくれない。半径20キロでも住めるところと、20キロ以上でも危ないところと。まだら状に汚染が広がるのは、チェルノブイリでも経験済みなのだけれど、今回の災害で生かされている感じはない。

 僕は、事実はありのままに伝えた方が良いと考える。マスコミでは限界がある。

 「実は日本の規制は厳しい」などと、規制値を緩くしようとする動きも報じられているけれども、批判しないのは職務怠慢もいいところで、言語同断だと思う。後出しじゃんけんはルール違反だと指摘すべきだ。少なくとも、長い間放射性物質を扱うために決められてきた根拠のある数字なのだから、今回の事故では厳格に守らねばなるまい。すべてが終わった後、「実はきつすぎた」と議論するのは自由だが、事態が起きている段階で規制値をゆるめるのは、その分命の価値を軽くすることにつながる気がする。

 

 話は変わって、ろくに被災地支援もしていなかった僕だけれど、エコポイントが寄付できることを知って手続きをした(配偶者にしてもらった)。テレビにエアコンでしめて30000点。商品券に換えて何に使ったか分からなくなるよりは、よっぽど有効な使い方だ。が、日本赤十字社への寄付になるので、何に使われるかは分からないのが物足りない。

 数多ある義援金も結局は日赤に集まって半年後ぐらいに見舞金のような形で被災者に配られることになる。それはそれで役に立つのだが、「その後」は見えにくい。継続して関わりたかったら、それぞれの市町村に直接送ったり、支援団体の活動資金として寄付したりする手もある。

 実は、松本時代に、チェルノブイリを支援している団体とかかわったことがあった。ぜひ、ベラルーシに行きたいと思っていたのだけれども、その願いも叶わないまま、日本がこんなことになってしまった。彼らは専門知識を生かして、被災地の医療を支えているみたいだ。直接寄付しようかしら。

3月18日

 朝から軽自動車で出勤。とりあえず、ガソリンを給油する。ガソリンスタンドに車列があるわけでもなく、給油量を制限されるわけでもなく、至って平穏だ。満タン給油をした。

 コンビニでは、唯一、単一と単二の乾電池が売り切れているだけで、カップ麺も弁当も総菜も、普通に並んでいる。入荷不足を告げる張り紙や募金を呼び掛けるアナウンスがあって、中部地方でも地震の影響があるんだな、と分かるぐらい。近くのスーパーに出かけると、カップ麺や水の販売個数を制限するとする張り紙が。おかげで、棚が空っぽになることはなく、至って平穏。物があふれていて、いいのだろうかと思う。

 車用品屋さんの「ジェームス」へ。携帯充電関連の機器やDC-ACインバーターも普通に在庫。お隣のイオンに行くと、スーパー部分で米が売り切れ。水の棚も在庫は少なめだったがまだ買えそうな雰囲気。おむつを大量買いしている女性がいたが、メモを手にしていたので、ママ友から頼まれてまとめ買いしているんだろう。

 レトルトカレーが人気で棚がけっこう空いていた。原発災害が続いているからか、とろろ昆布や韓国海苔が売り切れていた。

 電化製品コーナーでは節電のため、テレビが消されていた。夜は看板の電気を落としているところも。が、60Hz地域は電気が足りているので、本来、節電に意味はない。節電は悪いことじゃないけれども、「節電で浮いた電気代分を義援金として被災地へ送ります」ぐらいのことをしないと、ただのパフォーマンスだし、どさくさに紛れてコストカットをしているだけになってしまう。

 水曜日に神戸へ行った。まったくもって日常の風景だった。ただ、新幹線はビジネスマンよりも家族連れ、特に子ども連れが多く、家族を迎えに来ていたおじいさん、おばあさんの姿も。たぶん、関東方面から親戚を頼って関西方面へ行く人たちだと思う。

 余震が広い範囲で頻発していたり、別の場所で地震が起こったり。さらに原子力災害なんて正しく理解できる人の方が少ないに違いないので、こんな反応も仕方がないかもしれない。

 トヨタや関連会社の工場は止まっているみたいだし、外食屋さんに行くとやっぱり客が減っているといって嘆いていた。けれども、少なくとも60Hz地域では生活に大きな支障が出ていないことは確か。

 日常生活が送れる地域で「自粛」を強調しすぎると、経済活動が縮小してしまう。被災地のために何ができるかを常に考えつつ、復興のエンジンとして普通の暮らしを続けていこうと心に誓う。

3月11日

 同じフロアーにテレビが数十台ある感じの仕事場。だいたいはNHKが流れていて、午後3時前に、緊急地震速報が流れる。あわてて多くの人がテレビの前に集まる。東北地方で強い揺れとの情報。NHKでは国会中継が流れていて、そのうちに、国会議員たちが上を見上げ出す。「ああ、東京も揺れているんだ」と眺めているうちに、足下がゆらゆらっと揺れ出した。

 東北の地震で、名古屋も揺れるのかよ!と驚く。そんなにきつい揺れではないのだけれども、船に乗っているようなゆらりゆらりとした揺れが、とにかく長く続いた。これはただことじゃない、とテレビを見ているうち、津波の映像が流れ出す。茶色い濁流が生き物のように広がっていく姿は、映画のようだったけれども、現実の映像で、しかもあの中に多くの人がのみ込まれているのかもしれない、と思うと目を背けたくなった。

 何もできないもどかしさを感じながら、みなさんの無事を祈る。

3月9日

 フェースブックに下記の投稿をした。言いたいのは「遠慮せずに↑の広告をクリックしてくださいね(はあと)」ということだ(笑)。

 2011年2月28日 振込1 グ−グルインク 10,476円

 匿名で10年前からやっている某クルマ馬鹿サイトにGoogleの広告を張ってみたのが1年半前。特段、「クリックしてください」とはアピールしなかったけれども、ちょこっとずつクリックされて得た広告料が積み上がっていき、支払いの区切りになる1万円に到達。先日、振り込まれていた。

 張り付けた当初は物珍しさから、一気に1000円分ぐらいのクリックがあったけれども、その後は1週間に数十円程度積み上がっていくペースだった。クリックするようアピールをしなかったし、クルマ趣味サイトという特殊な内容なので、表示される広告のバリエーションが少なかったことも伸び悩んだ原因の一つだと思う。とはいえ、僕のサイトはこのネット時代、半年で3000円余りを稼げるんだということは分かった。最近は放置気味なので、やり方さえ工夫すれば、半年で1万円ぐらい稼げそうな感触だ。

 htmlにタグを埋め込んだだけで、1万円ももらえたのだから感謝、という思いと、せっかく無料で情報を発信している自己満足感を崩してまで広告を張ってあげたのに、それっぽっちかという思いと半々ぐらい。ちなみに、この間に10万アクセスぐらいだったから、10万アクセスごとに1万円支払われるというのが、ざっくりとした計算だ。

 片手間でやっているサイトで稼げるのは「これっぽっち」だ。本気でネットだけで食っていこうと思ったら、1カ月に300万とか400万アクセスを集める記事をがんがん書けば何とかなるかもしれない。アフィリエイトやらも取り入れて、ものが売れたらいくら入る、みたいな広告をごてごて張るともう少し稼げるのかも。

 純粋に自分でhtmlエディタで構成したサイトだからこうやって自由に広告を張ることができるのであって、注目が集まりやすいブログサイトで記事を書いていたら、記事から生まれる果実はすべてサイトに持って行かれてしまうことになる。ネットの片隅で勝手にやっているサイトで月300万アクセスとかは「途方もない」数字で、たぶん、テレビなんかを通じて有名にならない限りは到達できない。ネットで食うということは、つまりそういうことだ。

3月2日

 2月17日をもって、実はこのサイト「ガレージ雅」を立ち上げて10年が経過した。

 10年ですよ! 今から10歳も若かったんだと、そんなときから素人で何も知らなかったくせに本気で車いじりを始めてしまっていたんだと、改めて自分は「馬鹿だなあ」としみじみ感じる今日この頃。

 1997年にH4年Vスペシャル(3万キロ走行)を購入し、事故車も含めてあと3台のロードスターを購入(3台中2台は運転していないw)して、20数万キロを走ったけれど、いい車に出会ってよかったなあ、というのが感想。普通に生活していたら、絶対できなかったであろう経験もできたし、絶対に出会うことのなかったたくさんの人に出会うことができた。

 このホームページが縁になって、富山とのつながりができたけれども、まさか自分が富山に異動になるとは想像だにしなかった。富山生まれの配偶者もロードスターつながりから知り合ったわけで、まさに人生が変わっちゃったわけだ。そういう意味では、ネット時代の象徴というか、可能性を体をもって体験した感じ。まあ、稼業はネット時代に一番やられてしまっている業界なわけで、そう考えるとかなり微妙な立場だなあ。

 ホームページデザインは、10年前からほとんど変えていない。当時まだ普及したてのスタイルシートを使って、リンクなのに下線が表示されないようにしたりとか、工夫をした覚えはある。たぶん、最新の技術を使うともっとスタイリッシュになるとは思うのだけれども、1度作った「型」を続ける価値というか、継続の大切さを重視した。

 当時はホームページを作るしか情報発信の手段がなかったけれども、mixiやみんカラが出てきて、明らかにネット上の注目が移り変わっていった。でも、やはり流行があって、たぶん、今は注目を集めているそんなサイトからも注目が移り変わって行くであろう。

 でもね、ネット世界がどう変わろうとも、自分のハードディスクに記録してあるデータをネットに上げるというスタンスは変えないでおこうと思っている今日この頃。