月: 2009年4月

4月15日

 富山市内では今、選挙が花盛り。昼間、街宣カーが近くに来ると、うるさいのなんの。

 4年前に合併があって、郡部だった地域は合併特例もなくなって定数削減の憂き目に。2000票ちょっと取れば議員になれたのだけれど、それが3000数百票まで当選ラインが上がって、みなさん必死なのである。なにせ、選挙で落ちちゃったらただの人。

 「行政は予算に上がるまでが勝負」などと個人演説会ではおおっぴらに行政の裏側を暴露してしまって、政治家がこの時代になっても利益誘導で票を取ろうとするのはいかがなものかとも思うが、有権者がそれを求めているのであれば、一蓮托生、表裏一体の関係なのである。そんなことではいけない!と言い続けてきた仕事であるはずなのだが、半世紀以上経過しても、まったく改まる感じではない。むしろ、巧妙化している感じ。

 国も県も自治体も、昔から比べたらその役割はかなり低下しているのだけれど、その中にいるとそういうことに気付かないらしい。確かに不況になると、中小企業の運転資金の低利貸し出しは必要な政策なのかもしれないけれど、公が民間の仕事を創り出そうといってお金を使って、うまく行った試しがない。ちなみに、不況になって公が民間企業にお金を貸し出すっていう行動自体は半世紀前から普通に繰り広げられてきた処方箋であって、特別驚くほどのことでもない。それを、大きな手柄のように宣伝するのはいかがなことかと思う。

 いつものごとく、話がそれてしまったけれど、要するに選挙のあり方は民度をそのまま反映して、富山の場合は他の県と同じく改善の余地っていうことなのだ。

4月13日

 金曜日。相変わらず、富山市長選があるので僕自身はひまひまな感じだったので、まったりと過ごす。県庁の幹部さんたちと、お昼ご飯のタイミング懇親会があり、あれこれ世間話。「副知事さん! 今度お部屋におじゃましますから」と強引に約束を取り付けようとしたら、「いいよ、いつでも来られ」となんか拍子抜けするぐらいあっさりOKをもらってしまった。出世する人はやっぱり違う。

 夜は新しいボスが「飲みに行こう」というので仕方なく付き合った。なんかね、言うことやることがいちいちかんに障る感じなんだけれど、たぶん、悪い人なのではなくて、天然でそういう言動をしてしまう人、ということは分かったから、仲良くしていこうと思った。だって、いかに富山に居座るか、というのが今の僕の課題なのだから。総曲輪のショットバーに行ったのだけれど、いつの間にか意識を失って「もうそろそろっ!」とマスターに起こされて、のろのろと家に帰ってビールを飲んで寝た。

 土曜日。民主党の鳩山さんが来県する、ということで、高岡へ。現地の人に任せば良かったのになぜ、わざわざ足を運んだかというと、古城公園の桜を見たかったからなのだった。

 地元放送局アナウンサー出身で次の衆院議員選挙に無所属で出馬する半民主党候補者とともに鳩山さんが桜満開の古城公園を回っていた。2人ともテレビで見る人だから、純朴な富山県民は2人を発見するや「写真を撮ってください」などと近寄ってくるものだから、全然進まない。それでも、酔っぱらいだろうが近寄ってくるすべての人に丁寧に対応していたのは、やっぱり政治家なんだなと感心した。いや、そういうことができるから、政治家になれるんだろう。案外、ちやほやされてうれしかったのかもしれない。

 日曜日。宿直をこなして、富山市長選の告示ということで、現職候補者の出陣式へ。第一声をやっている場面をばしばしっと写真撮影して、この日の仕事は終了。昨シーズン一緒に走っていたこにやんから「花見に行こう」と誘われていたので、朝日町の舟川べりの桜へ。高速道路を使う。「ETCだから1000円だもんね」と得意になって料金ゲートを通ったら、「700円」と表示されてずっこけた。そうだ、2000円を超えない区間は半額じゃんね。

 愛嬌を振りまく娘と戯れながら、お弁当と食べさせてもらい、桜を眺める。デザートまで食べて、のんびりと。

 チューリップ畑があり、桜と山とが一緒に撮れる感じだったのでケータイで1枚ぱちり。望遠レンズがあれば、なかなか良い絵が撮れると思ったのだが、真ん中に自動車の列があったから、ケータイで十分だった。

 夜から飲み会にお呼ばれされていたので朝日インターに乗り、名古屋に向かう。休日1000円ということでやっぱり車が多め。岐阜県の大和インターあたりで渋滞していて、かなりの時間をロス。一宮あたりも込んでいるという情報だったので、東海環状道を通って瀬戸・赤津インターへ。中央道とのジャンクション付近でも少し渋滞していた。

 実家に車を置き、開始時間から1時間ほど遅れて到着。住宅地の真ん中にある炉端焼きのお店で、なかなか本格的な感じ。隠れ家的な感じで、よくこんなお店を知っているなと感心した。2次会は、名古屋時代に行きつけだった小物マニアなマスターがマニアックにやっている新栄のバーへ。終電近くの電車で戻った。

 月曜日。あまり仕事を一生懸命やらなくても良い感じの日だったので、お休みをもらう。どうせ、富山に戻るだけ、ということで、下道で富山に戻ることに。名古屋市内のごちゃごちゃをちょこっと走って国道22号で岐阜。岐阜から国道256号で、先日、オイルをぶちまけてしまった洞戸村を通って郡上八幡。国道156号をひたすら北上し、荘川、白川郷などなど。ダムサイトの道は高速の開通で走りやすくなったか、と期待していたのだが、相変わらず工事のダンプカーやトラックが走っていて、排ガスやほこりまみれでオープンカーにとってまだつらい環境だった。

 五箇山から利賀村へ出て、八尾町。夕方の込む時間帯だったので、神通川の左岸の道を走って帰宅した。

4月9日

 仕事をさぼって10万円で購入したインプレッサの名義変更へ。

 スバル、と言えば学生時代に母のスバル・レックスを奪って乗り回していたことを思い出す。軽自動車そうろうの安っぽさだったけれども、足を骨折したことがあったものだから、日常の足として活躍し、思い出深い車ではある。CVTだったので、車に興味がある若者にとっては物足りない車だったことは確か。

 自分でオイル交換したのは良いのだけれど、ジャッキアップポイントなんて知らなくて、勝手な場所にジャッキをかけてしまい、フロアーをへこましてしまった覚えがある。素人なんて最初はそんなものだ。僕がロードスターを購入したのを機に、母もレックスを手放した。

 次は、FJ1600のEA71エンジン。これはスバルに乗ったうちに入るのか? 新車で買ったのだけれど、ちょこっとだけ乗って継続が不可能になり、車だけはレース屋さんに置いてあったけれど、知らないうちにどこかに行っちゃった。

 写真は先日乗ったFV/2K。EA71エンジンとミッションがこんな低い位置にマウントされている。カウルの色が青である以外はまったく同じ車。

 そうそう、先日の鈴鹿の走行のとき、レース屋さんに「あの車、ある場所にあったぞ」という話を聞いた。2004年に僕が降りたままの状態で、1度も乗らないで置いてあるのだそう。「買おうかな」とレース屋さんが話していたので、僕が買い戻しても良いかもしれない。

 話が大幅にずれたが、3台目のスバルであるインプレッサで富山運輸支局へ。デミオの住所変更と、雅久号の登録に続き、3回目。書類を30円で買って、登録代の500円の印紙を買い、見本を見ながら内容を書いて、県税の申告書を書いてとばたばたやって、午前中の受付時間ぎりぎりに書類を提出。

 譲渡証明書に委任状に相手と自分の印鑑証明に車庫証明と、車1台の名義を移すのにけっこうたくさんの書類がいる。元の所有者が福山ナンバーから富山ナンバーに移していなかったので、住所変更の変遷が分かる書類が必要だってことで、大阪に引っ越していた元所有者から戸籍の付票を送ってもらった。

 が、ここで窓口の担当者が引っかかって「富山の印鑑証明に大阪の付票でいいのかなあ」と首をひねっていたが、車検証を出してくれた。書類が出ればこっちのもんだ。ナンバーを外して窓口に返し、新ナンバー代1520円を払ってプレート2枚をもらう。

 正午直前。昼休みに入ると午後になってしまうので、あわててリアの新しいナンバーを取り付けて、封印を付けてもらった。ぎりぎりセーフで名義変更完了。2500円の車庫証明に印鑑証明2枚+戸籍付票、今回の2050円で合計5750円かかったことになる。

 スポーツワゴンの名の通り、白い文字盤のメーターにMOMOのステアリング。シートもホールド性が良い。オートマのクリープの感じがデミオと違い、1500ccの乗用車用エンジンにしては下のトルクが薄い気がしたけれど、まだまだ元気に走りそう。朝、エンジンを掛けようとしたら、なかなかかからなくてプラグがかぶったみたいになった。そこら辺もスバルっぽく感じる。

 まだ冷えているとき、HLAのラッシュ音ような音がしてかなり気になったのだが、もしかしたら水平対向だからピストンがこんこんと音を出しているのか。暖まったらまったく出なくなったけれども。

 デミオが5月下旬に車検切れになるので、それまで乗ってインプレッサに乗り換える。1998年に松本ナンバーを取得したデミオは、2005年2月に95000キロで僕のところに来て、尾張小牧ナンバー、富山ナンバーを経て今16万キロ弱。役目を終えることになる。

 「福」から「富」へナンバー変更。

4月8日

 昨日付の「日常」をアップしようとしたら、写真のアップで「ディスク容量オーバー」の表示が出た。「ついに」と思い、@Niftyのサポートに電話をして料金コースを変更し、容量を100MBに拡大する。

 自宅の回線を光に切り替えたのと同時にキャンペーンの関係もあって地元のプロバイダーに切り替えていた。それまでは@Niftyを使っていたからたぶん、もっと多くの容量があったんだろうけれど、光導入とともにプロバイダーとしての利用は一度やめて、メールとホームページのサービスだけを利用するつもりで月額525円の一番安いコースを選んでいた。そのコースだと、いちおうホームページは持てるけれど、容量が20MBしかない。

 そう、このサイトはすべてひっくるめて現在、20MBのデータ量しかないのだ。この前借りたNikonD3で撮影した4256×2832ピクセルの写真データが1枚、4MB前後だから、写真5枚分。テキストサイトだからこんなもの。

 それでも、写真の画質を落としたり、サイズを小さくしたりして容量の節約に努めてきた。当初、5MBか10MBが容量だった気がするが、時代の流れとともに勝手に容量が増えていって、いまや普通のプランなら100MB割り当てられる時代になった。

 そこまでけちらなくても良いじゃない、と思うかも知れないけれど、僕が初めてネット環境を得たとき、14400bpsのモデムで電話回線を使っていた。当時はインターネットがまだ普及し始めた段階で、@NiftyはNIFTYSERVEという名前でパソコン通信が全盛の時代。NECのPC-VANだとか地元の個人的なパソコン通信なんかのIDをとって、フォーラムなどと呼ばれた話題ごとの掲示版のような仕組みで情報をやりとりしていた。そのうち、PPP接続OKとかいって、専用の電話番号が設けられて、プロバイダからインターネットにつなげられるようになった。それまでは大学などの限られたコンピューターからしかネットにはつなげなかったのだ。15年ぐらい前。

 当然、パソコン通信はテキストベースの情報交換が中心で、中には2400bpsという遅いモデムでパソコン通信をしている人もいたから、やりとりは最低限にとどめて、質問があってもあちこちに同じ質問を書きまくると「マルチポストだ」とマナー違反をとがめられた。だって、電話回線をつないでいる間は普通に電話料がかかっているわけで、それぞれの負担を軽減させるためのマナーがあったわけだ。当然、今のようにつなぎっぱなしで使うんではなくて、巡回ソフトがあって、読みたいフォーラムを巡回し、メールを送受信して回線を切るまでが自動で終わり、後からその巡回したログをゆっくり読み、レスなどを書いてまた巡回する、という使い方だった。

 インターネットの普及(Windows95が後押しした)とともにパソコン通信はあっという間に駆逐されてなくなってしまったけれど、メールの返信は簡潔にとか、htmlメールはもってのほかとか、添付ファイルの容量には気をつけてとか、いろいろなマナーはしばらくは残っていた。だから、このサイトを新たにつくったとき、800×600のノートパソコンのモニターでもきちんと見られるように(もっと言えば640×480のディスプレーでも支障なく見られる)とか、写真はなるべく軽くとか、あれこれ配慮した。ただ、表紙のレイアウトに凝ったら、ちょこっと重くなったのが気になったのだけれど。最近の横幅の大きなディスプレーで見ていると、ブラウザの中央にせせこましく情報が書かれているように見えるかもしれないけれど、それは、いろいろな環境で見ている人を想定してのことなのだ。

 最近は表紙だけでものすごく重いサイトが普通だし、何よりブログが中心になっていて、自分のパソコンにはサイトのデータが入っていないことも当たり前になった。僕はせっかく書いたテキストが事業者側の都合で消えたり、変な形でバックアップを余儀なくされるのがいやなので、すべてをHTMLエディタで書いて、ローカルのハードディスクに入っているものをネットに上げるという古風な運用を続けている。今なら、パソコンすら持っていなくたって、ネットカフェなんかでブログがアップできるのだから、時代は変化するものだ。

 2001年から始めて8年で20MBなのだから、このままのペースをたどるとしたら、100MBに達するのは32年後か。32年後にやっぱりロードスターに乗っていて、こんなくだらないことを書き続けていたとしたら、自分をほめてあげよう。

4月7日

 間瀬サーキットから帰ってきて、寝不足で疲れていたので、おおとろ亭にちょっと寄ってデータを落として、そのまま帰るつもりが、ホタルイカの昆布じめが食卓に並んでいたのを発見、気がついたらぷしゅっと淡麗のプルトップを起こして反省会に入っていた僕がいた。

 いつしか寝てしまったらしく、午前5時ぐらいに目をさめたらこたつに入って雑魚寝状態。おもむろにパソコンを取り出し、ニューネオバとスタースペックのインプレを書いているうちに午前9時ぐらい。ちゅうとろ君が入学式ということで、玄関前やら桜の前で写真をばしばしっと撮る。

 急いで仕事に出掛けるも、前日のサーキット&寝不足で全身倦怠状態。ここら辺はみそじーずの悲しいところで、まったく仕事をする気が起こらない。

 やらねばならない仕事があったのだけれど、ぼーっと頭が働かない。これはいかん、と思い、コンビニでレッドブルでも買って飲んでしゃきっとするかと思い、県庁から外に出ると松川べりは桜が満開。多くの人がうろうろと歩くのに合わせて川べりを桜を楽しみながら歩いているうち、松川はいたち川に変わって、JR北陸線の下をくぐって、富山ライトレールをまたぎ、いつしか富岩運河環水公園に到達。

 松川べりは満開だが、いたち川沿いはまだ7、8分といったところで、たぶん週末ぐらいなら楽しめる。人だらけの松川べりと違い、いたち川べりはあまり人がいないので、のんびり桜を楽しむことができるからお勧め。立派な桜は松川の方が多いけれど。

 いたち川を神通川方面に散策していて、牛島あたりに差し掛かっていたら、おなかがすいていれば左に曲がってラーメン屋のまるたかやへ、そうでもなくて休みたかったら、環水公園内にできたスターバックスでお茶でもするのが吉。

 おなかも一杯だし、休む必要もなかったので、いたち川べりをずんずん進む。赤十字病院横を通って、いたち川と別れを告げ、神通川の堤防へ。

 赤十字病院を左手に見ながら南に向かって歩く。富山北大橋の下をくぐってずんずんと。JR北陸線の鉄橋が近づく。さすがに線路をまたいでわたるわけにはいかなくて、下をくぐる。ここで、味のあるものを発見。

 北陸線の鉄橋(奧)はコンクリート製の新しい感じだったのだけれど、高山本線の鉄橋は、写真では見づらいけれど、真ん中が煉瓦造りで外側が石組みだった。後で調べてみると、これは1907年に北陸線が開通したときの鉄橋らしい。たぶん、100年前は中心部の煉瓦だけの構造物で、その後、サイドの石組みを追加して補強。上に載っている鉄橋も同じ感じでもともとの鉄橋があって、それを補強する形で鉄骨が追加されている感じだった。たぶん、重くなった列車に対応したんだろうねえ。

 その100年前の鉄橋の南側では北陸新幹線の鉄橋をつくる工事が進んでいてギャップがおもしろい。

 神通大橋は車の切れ間を縫って上を通過。立山醤油味噌のすっごく古くて味のある工場の建物を横目に、ひたすら南進。新しく架けている新富山大橋が。こちらは下をくぐって、富山中部高校や新築した芝園小学校の横を通って磯部町。

 再び松川べりに戻る。やっぱり人が多くて辟易。松川べりじゃなくたって、桜がきれいなところはいっぱいある。

 県庁に戻ったのが出発から1時間半ぐらい。松川、いたち川、神通川散策は6、7キロといったところか。

4月6日

 RS Factory STAGE練習会に合わせて休みを取り、雅久号で間瀬に行ってきた。間瀬パドックにて手前はFire号。

RS Factory STAGE

 15インチ化の耐久仕様ロードスターでどれだけのタイムが出るかが問われた今回。AD08のニューネオバがどれだけ働いてくれるかという期待を胸にコースイン。

 去年の14インチAD07ネオバをそのままに、ハードトップと助手席外しでどれだけのタイムが出るかを試す。午後からの走行だったので、路面温度は最終戦より高めだったと思うけれど、最終戦とほぼ同じタイムを計測した。50キロ近く軽くなった恩恵はかなりあって、ブレーキングポイントがかなり奧になったし、コーナー中もさらにハイグリップを付けたみたいにすごくグリップ。が、使い古しのAD07はどうも3、4周でたれてしまってリアが滑り出してだめ。

 STAGEのT氏にニューネオバAD08を試してもらい、僕はDUNLOPのスタースペック15インチを借りる。コースインしてやっぱり15インチという感じで、ものすごくグリップする。T氏が「けっこうくうんだよね」という言っていたとおり、オンザレールな感じで14インチネオバと格闘して走らせていたことを考えるとステアリングをくいっと切るだけで済むので、なんか物足りない感じだけれど、ブレーキも決まるしとっても良い感じ。14インチネオバよりも1秒近く上回るタイムを立て続けにマーク。借り物のタイヤ&ホイールで遠慮して走っていることを考えれば、とっても良いフィーリングだった。

 夕方に路面温度が下がりかけのタイミングでいよいよニューネオバでコースイン。まず感じるのがスタースペックに比べて柔らかいこと。縁石に乗っても大丈夫な感じで、ラインの自由度は高い。が、タイムは伸び悩む。柔らかいことが逆に、ブレーキングでもやわやわっとつぶれるタイヤのグリップを探る感じになってしまうし、コーナリング中もやわやわっとしていてリアが横に出るのを探りながら走る感じ。14インチのAD07で走っているみたいで、オンザレール感はない。2、3周目に良いタイムは出るけれど、その後はコンマ3、4秒下のタイムで安定する感じ。

 T氏曰く「ニューネオバって良いの?」といまいちな評価。僕もスタースペックにチョイ乗りしたのと比べて、ニューネオバがスタースペックを凌駕しているとは感じなかった。

 

 夕方、T氏のSC号とFire号が遊んでいる場面に遭遇。15インチで軽量ロードスターでどれだけついて行けるか!と気合いを入れて走るものの、ソックス以降の裏側では何とかついて行けるものの、ホームストレートではパワーの差で一気に差が付いてしまい、あっという間に置いて行かれた。「絶対、離されね!」とがんばったけれど、空回りしてハーフスピンになってしまい、取り残されて終了。2リットルとスーパーチャージャーだから、当たり前といえば当たり前。

 それでも、軽いということは良いことで、ブレーキングポイントは明らかに奧だし、コーナーも速い。走りは、パワーだけではない、ということで。

4月5日

 予想したとおり、11時台にてぽどんが発射されて、その速報ニュースをテレビで見ていた。それでも、レーダーで探知するような話が、一瞬で関係機関やマスコミに伝わって、わずか10分少々のできごとをリアルタイムでみなが共有できるってすごい時代だなと思った。

 とりあえず、被害はなかったみたいなので、工場へ、雅久号のオイル交換などなど。いろいろ工具も積み込んで、6日の間瀬のテストに向けて万全の体制をつくる。

 夜は、元祖雅号であちこちの夜桜巡り。勢い余って、午前2時半の帰宅となり、それからF1を見たのだから、明日の寝不足決定。たぶん、タイム出せない、と思いつつ、そう思うのだったら1秒でも早く寝ろよ、と自分自身に突っ込みを入れる僕なのであった。

4月4日

 土曜日に出勤。休みの日に働くのだから、いちおう、働いていることになっているのだけれど、最低限やって、遊びまくるのだ。

 と思ったら、北朝鮮がミサイルを発射するという。県庁2階の防災担当課で国から情報が来て対処するところを見学する。今回の飛行ルートは東北を通るので富山で被害が出ることはまずないけれど、何となくぴりぴりした空気が漂う部屋に、隣の県庁前公園からちんどんコンクールの音が聞こえてきたのはかなり笑えた。人は、笑い飛ばした者勝ちだと思う。

 結局、暇なまま午後4時まで待ったけれど発射されなくてずっこけた。

4月3日

 職場にNikonのD3が転がっていたので、勝手に持ち出して使ってみた。

 カメラはNikonのF90Xから始まって、デジタル化に伴い、Canonに乗り換えた。2005年当時、今使っている20Dは、NikonのD70と比べても20Dが優れていたし、何よりもカメラマンの同期が「キャノンにせよ」と言ったので、素直に従った。

 当時びっくりしたのが、ISO800常用でもまったく問題のない画質。さらに、手ぶれ防止のISレンズは8分の1秒でシャッターを切ってもほとんど失敗がないくらい。じーじーと迷うF90Xのオートフォーカスはいざというときに切れなかった困ると信用できなかったので、マニュアルフォーカスで使っていたけれど、一瞬で決まるCanonのオートフォーカスにもびっくりした。

 で、D3。F90Xに付けているAi AF Zoom Nikkor 24〜120mm F3.5〜5.6D(IF)という10年前のレンズを取り付けて、DXフォーマットのモードになっていたので、FXモードに切り替えてみる。20Dに比べてでっかく広大なファインダーにびっくり。10年前のレンズでも関係ない素早いオートフォーカスにびっくり。巨大な液晶ディスプレーにびっくり。連射の速さにびっくり。露出の的確さにもびっくり。絞り優先にしてどうやって絞りを決めるのかが分からなかったけれど、右手人差し指のところにダイヤルがあることに気がついて、操作したら指がつりそうになった。

 巨大サイズのファイルを操作しているのにさくさくとプレビューとか拡大できるし、自由自在な操作感。シャッター音もしびれる感じ。こりゃあ、欲しくなるなあ、とあれこれ撮影する。20Dはぎらぎらした感じの画像が得られて、それはそれできれいな感じで良いのだけれど、D3は落ち着いて見たままの感じで、空気感も再現しているようで、こちらも好印象。

 何よりも高感度だ。ISO6400が普通に使えるってことは、すでに感度ではフィルムカメラを凌駕していて、僕の仕事にはそれが一番ありがたい。体育館の中の競技とか、夕暮れ時のサッカーや野球とか、スポーツにはもちろん、隠れて撮るとかフラッシュがたけない場面や早朝、深夜帯の事件などなど。愛知県にいたときは立てこもり事件があったねえ。あんな場面で、規制線の外から超望遠で狙うときに6400があったら、すごく楽だったと思う。あとは、花火とか夜イベントとか。

 センサーの面積はあまり関係ないかな。クリアな絵を求めるので、同じシャッタースピードでできるだけ絞り込むという使い方をする。お花とかの写真でも見ている人を写し込むことがほとんどなので、若干絞り込んだ絵を撮ることが多い。強調した表現を狙った写真ではボケが必要なこともあるけれど、DXのぼけで十分というか。画素数は800万もあれば十分すぎるほどなので、こだわらない。ま、トリミングできる幅が増えるのはありがたいけれど、撮り方でカバーできる。

 D700ってこれとほぼ同じ性能なのに20万ちょっとなんだよなあ、と考えると、猛烈に欲しくなる。キャノンの5D MarkIIを待っていてかなりずっこけたので、輪を掛けてほしい。

 んが、今の僕の持ち場では、このカメラが必要になるシチュエーションがなくて宝の持ち腐れになってしまう。おっさんたちが集う場面の撮影は、20Dで十分すぎるどころかコンパクトデジカメでもOKなぐらいだ。どうせ使わないし。

 ということで、カメラ買い替えは踏みとどまっているのが現状。こんなすっごいカメラの後継機はしばらく後になるかもしれないが、もし出たとして高感度側の性能がD3やD700よりも劣っているようならば、在庫処分品を即ゲットな感じ。たぶん、Nikonであれば高画素に走った機種を出したとしても、一方で、よりすごい高感度、画質に振ったカメラを出してくる気がするので、心配はいらないだろうけれど。

4月2日

 朝、9時ぐらいに一度目がさめたら、外はいい天気って感じだった。「おわらサーキット走れるかも」とふと思ったけれど、前日に雨だと思って何も準備をしていないので、あきらめて再び寝る。

 6日のRS Factory
STAGE
の間瀬走行会に出掛ける前に、一度、おわらサーキットでセッティングをしておきたかった。職場の勤務ローテーションは僕が作っているので、自由自在に休みを付けてしまうのだ。2日はおわらサーキットの走行枠も午前中にあるし、特に重要な仕事もなさそうなので、休みを付けておいた。が、前日の情報だと雨ということで、走行はあきらめて、どうせ休みだからと、体育会系の後輩の生ぬるい殺気にやられて飲みに行き、午前3時ぐらいまで飲んでいた。

RS Factory
STAGE

 ちゃんと準備しておけばドライコンディションで走れたかも。6日は間瀬でけっこう自由に走ることができるようなので、間瀬でしっかりセッティングを取ろう。

 お昼ごろに起きて、ぼーっとして過ごす。外はとっても良い天気なのだけれど、部屋に引きこもって無駄に時間を過ごす。外はまさしく春の陽気で、こんなときこそ、車検を取ったばかりのロードスターで開幌して走りまくるべきなのだが、無為に時間を過ごした。たまには、何もしない時間が必要だ。

 それでも夜はロードスターを駆って走る。充実した時間を過ごした。