月: 2005年11月

11月14日

 起きたら6時半だった。5時には起きて出発するつもりだったのだが、前日に大量に飲んだビールのおかげでまったく起きられなかった。同じ部屋で雑魚寝していた仲間も気配に気づいて起き出す。簡単にさよならだけ言って、家路につく。

 休みは日曜日だけだったから、今日は普通に出勤しなくてはならない。本当は、昨日の夜のうちには戻っていないといけなく、ばれたら大変しかられてしまうのだが、ばれなきゃ良いのだ。

 道にはすでに通勤の車がいて、ぶっ飛ばすというわけにはいかない。国道41号に入り、古川から清見に抜ける峠を抜けて、東海北陸自動車道へ。あとは、高速を淡々と走るだけである。

 デミオは高速となるとなんとも弱々しい。上り坂だと100キロ以上はスピードが出ない。下り坂でアクセル全開でぬおわキロがやっとである。一般車と同じように走って、関インターで降り、下道。江南に付いたのは9時10分ぐらいであった。そのまま適当に仕事に入る。タイムカードがあるわけじゃないから、何時に始めようが良いのだ。

 帰りは高速を使って2時間40分。行きは下道だけで3時間20分だった。山岳地帯をトンネルで抜ける効率の良い高速道路を走ったにもかかわらず、40分しか差がない。

 なにか計算がおかしい。

11月13日

 夜勤を終えて午前1時前に帰宅。風呂に入ったりいろいろしているうちに、2時半ぐらいになる。目標は5時に出発すること。3時間も寝られないが、布団に潜り込んで目をつぶる。

 んが、遠足前の子どもの気分でなかなか寝付けない。なぜか警察から午前3時半に電話がかかってきたりして寝たのかよく分からないまま、目覚ましのアラームが鳴り響いた。のろのろと起き出して、着替え出発だ。

 富山の車屋さんの恒例の走行会が、いまは富山市になってしまったおわらの里スポーツランドであるから、8時半のドライバーズミーティングまでには間に合うよう出発しなくてはならない。高速に乗るお金はもったいないから、もちろん下道である。江南に引っ越してたから、岐阜県までは車で10分の距離になり、少し富山に近くなった。

 まだ真っ暗な中、デミオで出発する。相変わらず、ロードスターは車検切れで、せっかくサーキットに行くのに、乗ることはできない。こういうときのために車を持っているはずなのに。

 愛岐大橋を通り、県道をぶっ飛ばして各務原、関、美濃を抜けると国道156号に合流。国道でもやっぱりぶっ飛ばすと、家からちょうど1時間で郡上八幡である。いまは合併して郡上市か。

 せせらぎ街道に入り、気持ちよいワインディングをぶっ飛ばす。ロードスターよりは2割引きぐらいのスピードになるが、デミオでも十分速く、早朝のツーリングは気持ちよい。ちなみにアクセル全開率は8割は超えている気がする。

 すでに山は紅葉が見ごろを迎え、気温も氷点下。それでも路面はドライなので安心してぶっ飛ばす。

 また1時間走って、いまは飛騨市になってしまった古川町にたどり着いた。国道41号に入り、後は道なりに行けば富山である。さすがにトラックが走っていたりして行く手を阻まれ、ぶっ飛ばすことはなかなかできない。

 おわらに付いたのが家を出てちょうど3時間20分ぐらい。車を降りるとちょうどドライバーズミーティングが始まるところであった。ナイスタイミング。早朝ツーリングならではの到着の早さである。

 走るわけじゃないが、参加者が走っている写真を撮ったり、バーベキューの用意をしたり、片づけの手伝いをしたりと、やることは盛りだくさん。仲間と一緒にわいわい言いながら作業をしているだけで楽しい。

 走行会の目玉の一つが、バーベキューとカニである。漁港で衣装ケースに山盛りに入れてもらって直送したカニ。いくら食べても減った感じがしない量。カニを食いなれた富山の連中は、贅沢にも足だけぷちぷちむしって食べていた。僕は、みそが好きなので、ボディーをばりばり割って細かいところまで吸うように食べていると「そんなにがんばって食べなくても良いから」と怒られる。この幸せ。

 無事走行会が終了した後は、車屋さんの家で宴会である。走行会のビデオを見ながら反省会をした後、わいわいガソリン(発泡酒)を給油しながら車談義をしているうち、ほぼ同時にみなが眠くなってバタンキュー。この幸せ。

11月12日

 折り紙好きが集まるというディープな催しに顔を出してきた。

 言わずと知れた、日本が世界に誇る伝統芸能。それでも知っているのは折り鶴程度の人が多いんじゃなかろうか。

 催しは、折り紙好きが高じて折り紙雑誌をつくっている団体が、愛好家同士の交流のために折り紙教室をいくつも開くというもの。こう書くと、なんだか子どもとお年寄りが触れあっていそうな、ほのぼのとした催しを思い浮かべる。んが、マニアの世界はすさまじかった。

 1枚の正方形の紙を切らないで使う、というのがルール。で、並んでいた作品を見て腰が抜けそうになった。ほとんどが立体。それも、バイオリンを弾く女性をかたどっていたり、ペガサスだったり、ゴジラだったり、侍だったり、エンジェルだったり。どう考えても1枚の紙を折っただけとは思えない作品ばかり。竜の折り紙では、無数のうろこが1枚1枚、立体的に表現されているのである。すごい世界がこの世の中にあるのだと、改めて驚く。僕が車をちょこっといじっているのなんで、なんでもないことだと思ってしまう。

 知的所有権の関係で写真撮影とかネット掲載は禁止。が、ネットに詳細な写真を載せていたってまねして折れる人なんていないんじゃないだろうか。折り方を教えてもらったって折れないようなものばかりなのだから。

11月11日

 労働組合の役員をやらされているので、本社に行く。厚生部会というところで、健康について会社側に求めることを検討。

 で、どこの職場でも同じだと思うけれど、メンタルヘルスについてが話題に上る。異動や人間関係が引き金になって、会社に出てこられなくなる人たちがいる。もともとその人の性格だとか、持って生まれた性質によるところもあるのだけれど、この業界は引き金になるきっかけが多い気がする。

 僕の知っている範囲でもいくつか事例があったので、「小手先の異動とかでごまかした対応をしないように訴えてよ」と発言しておく。こころの病気の場合、「だましだまし」という対応が本人にとっても周りにとっても一番最悪なのだ。診断書が出たのなら、きっぱりと仕事から離れてもらって一定期間休んでもらうしかない。本人が希望しているから、とだましだまし仕事をしてもらうと、相当な負担が本人にも周りにも及ぶことになる。

 まだまだ理解が進んでいないのが現状。それでも、管理職向けの講演会を開くというから時代も変わったものだ。いや、そういう時代になったと言ったほうがよいのか。

11月10日

 火曜日に高校時代の友人から「名古屋に引っ越してきた。飲むぞ」とメールが入る。こういうのは「またいつか」などと先延ばしにすると、忙しさにかまけて1年以上も会わない、ということになっちゃうから、もっとも早く時間がつくれる今日、名古屋駅で飲むことに決めた。メールは便利だ。

 駅前はすでにクリスマスのイルミネーションが点灯していた。おねえさま、と一緒に歩いているならば、「まあ、きれい」などとつぶやきながら、立ち止まってしばらくきらめく電飾を眺めるのであろうが、むさ苦しい男2人組みである。「ああ、さぶい」と一瞥をくれただけでネオンを目指す。

 感じの良いお店で感じの良いおつまみを食べながら近況について話す。昔は白木屋みたいな安居酒屋でめちゃくちゃに飲んだ仲だが、グレードアップした店を選ぶようになったのはちょっと大人になったということだろうか。んが、めちゃくちゃに飲むのは昔と変わらず、それもビールだけ飲んでいれば良いものを、感じの良い焼酎なんかをかぱかぱと何杯も何杯も飲んじゃったものだから、支払いもグレードアップ。一方で、お小遣いは月3万円になっているのだから、明らかにやりすぎで、請求書を見て青ざめる結果となった。

 少し酔いが覚めたが、もちろん次の店に行く。2次会、3次会と行き、終電間際まで粘って飲みまくった。

 今月は緊縮財政が決定的だが、たまにはこんなことがあっても良い。

11月9日

 保育園で今はやりの食育をやっている場面を見た。タンパク質と炭水化物、野菜をバランス良く食べなければならない。それを、食品を色分けしたり、体を機関車に見立てて、3つがそろってようやく走ることができると例えたりして、栄養士がうまいこと子どもに分かるように説明していた。

 で、子どもたちを5人ぐらいのグループに分けて、どんな朝ご飯を食べたいかを考えさせる時間に。さすがに子どもにはちょっと難しい作業だが、中にはきちんと話し合う子どももいて、感心する。

 考えた結果をみなに発表し、バランスの良い朝ご飯を食べることが大切となんとなく分からせるのが目的。子どもがどこまで理解できるのかは分からないが、家庭で親に向かって「野菜も食べなきゃいけないんだよ」とでも言えば大成功なんだろう。

 で、終わった後の雑談で、なぜ朝ご飯に焦点が当たっているのか、その背景を保母さんに聞いた。保母さん曰く「朝ご飯に菓子パンでも食べさせてもらっていればまだ良い方。牛乳をかけないコーンフレークを食べたりとか、親と一緒に食べてこない子どももいるんです」。朝ご飯抜きで来ている子どもは、お昼ご飯の食べ方で分かるという。「がつがつと食らいつくように食べるんです」。その様を想像しただけで、心が痛む。

 きっちり食べている子どもと食べていない子ども。入園から半年もたつと、成長の具合で差が出て来るという。将来はかなりの差になることは想像に難くない。

 本当に必要なのは子どもの食育ではなく、親への教育なのだ。「私たちは子どもを通じてしか、働きかけることができないんです」というため息交じりの栄養士の言葉がむなしく響いた。

11月8日

 100年前の人の人捜しは難航を極めた。が、今日あった出会いは、100年前の人との「縁」を感じざるを得ない。

 江南市の小学校から、日露戦争に従軍した人が戦地からふるさとに向けて送った手紙がわんさか発見された。学校の近所に住む床屋さんが、小学校時代の担任の先生の髪を切っているとき「学校のどこかに、大切な手紙が保管されているはず」と聞いた。たまたまPTAの副会長をしていたから校長先生に手紙があるかどうかを探すようお願いすると、図工準備室の片隅に掛け軸のように表装された手紙がまとめて置かれているのが見つかった。

 墨書でなかなか達筆な字が多い。達筆すぎて僕にはなかなか読めない。歴史好きの床屋さんが、親類のおじいさんに頼んで手紙を読んでもらい、活字に起こした。間違いがないかを郷土史の研究家に校正してもらう徹底ぶりである。こうして、どんなことが書いてあるのかが分かるようになった。

 内容から察するに、当時は、各村ごとに「尚武会」という軍隊の後援組織があって、慰問のために品物やお金、手紙を送っていたらしい。手紙はそのお礼に書かれたものがほとんど。

 ご無沙汰をわびて、元気で暮らしていることとお礼を簡単にしたためた手紙が多い中で、3通だけ戦地での体験を生々しく書いた手紙があった。ぜひ、書いた人の家族を捜して、見せてあげたいと思った。

 名前を元に地元のお年寄りなどをいろいろ当たってみるが、なにせ100年前の人だから「おばあさんが生きていたらどこの人か分かっただろうな」といった返事ばかり。なかなからちがあかない。が、粘り強く捜し続けて、次々と判明していった。

 「旅順の太平洋艦隊を撃退後、久しく敵の姿を見ていないから、バルチック艦隊がやってくるのを楽しみに待っている」という勇ましい内容の手紙の主は、偶然、床屋さんの隣の家に住んでいる人のお父さんだということが分かった。娘さん(といっても80近いが)もお父さんの筆跡を覚えていて、手紙を見せたらすぐに分かったそうである。戦艦朝日に乗って日本海海戦で戦い、無事に帰ってきている。

 「冬の夜に見張りをしていると、寒くて日付が変わるころには体の感覚がなくなり自分の体ではないみたいになってしまう。朝、交代の人が来たから、喜んで勢いよく立ち上がったら、外套が凍って地面に張り付いていたため、破いてしまったこともある」「砲弾は大きなものは二升壷ぐらいあって、飛んでくると付近は十間(18メートルぐらい)四方が荒れ地になる。そんなものが直撃すると、腸が飛び出るやら、体はばらばらになってしまう」と、過酷な冬と戦場の恐ろしさを書いた手紙の主は、地元の議員さんに聞いたらすぐ判明。孫に会うことができた。孫といっても70代だが。晩年楽しんだ俳句をつづった冊子を持ってきてくれて、照らし合わせるとやっぱり筆跡が一致した。

 2つは順調に見つかったのだが、最後の1通はなかなかどこの人か分からなかった。「戦闘中の死傷者の血液の流れ込んだ池の水で米を炊いて食べている」「清国はことし豊作だけども、日露事件で作物はめちゃめちゃになり、家屋が崩れたところもあり現地の人も困っている」と、長文の生々しい内容だから、ぜひとも縁者の人を捜し当てて話を聞きたい。が、地域にもっとも多くいる名字だったから、捜しようがなかった。

 今日、床屋さんから電話があった。聞くと、お墓にいるという。戦没者をまつった一角にある墓石に、その手紙の人の名前が書いてあるという。手紙を書いた後、戦死していたのだ。

 すぐにそのお墓に行き、床屋さんと一緒に墓石に刻まれた字を読んでみる。明治38年3月に亡くなったことが分かる。手紙を書いたのが明治37年11月だから書いてから4カ月後に亡くなったのだ。時期から考えると、日本側25万人、ロシア側29万2300人が激突し、日本側で7万人、ロシア側9万人もの死傷者を出した奉天の会戦で亡くなったんだろう。

 そうか、あの手紙の人は戦争で亡くなっていたんだ、と感慨深く床屋さんと話をしていたら、知らないおじさんが「そのお墓に何か用ですか?」と声をかけてきた。聞けば、このお墓を守っている家の人で、通りかかったら怪しげな男2人がお墓に食いつくようにしているので、けげんに思ってわざわざ車を止めて、声をかけたのだという。理由を説明すると、本家の長男に電話をしてくれた。やってきた長男曰く「どんな縁がある人か知らないが、調べてみよう」。お墓の人の手紙が見つかったことを喜んでくれた。

 聞けば、おじさんがお墓の横を通りかかったのも、たまたまやっていた道路工事を迂回したためだという。100年前の手紙が、図工準備室から見つかったこと自体が、ほとんど奇跡だったのに、ここまで偶然が重なると、「たまたま」というよりは、もはや「縁」を感じる。手紙を書いた人たちが、内容を世に広く知らしめてくれ、とお墓の中から訴えているのかもしれない。

 見ると、お墓に供えられた花が枯れて長い間放置されているようだったので、これまた偶然にも曼陀羅寺の菊まつりでもらって車に積んであった菊の花束をたむけておいた。

11月7日

 夕方、暗くなりかけたころ、新型ロードスターが走っているのを初めて見た。白いボディのフロントフェイスは精悍な印象だが、なぜかボディサイズがかなり大きく見えた。オープンにして乗っていたのは、初老の男性で、かぶっている帽子も様になっていて、自分なりのライフスタイルを実践して生きている感じが伝わってきて、かなり格好良かった。

 確かに、新型のロードスターのコンセプトを見てみると、子育ても終わってちょっと自分にご褒美をあげたい裕福な層を狙っている気がする。これまでNA、NBロードスターに乗っていた人からすると、ちょっと刺激が薄くなり、その代わり安定感と扱いやすさ、高級感、快適さがプラスされた。値段も少々アップ。

 ちょっと話はそれるが、webCGのとある小沢コージのエッセイ(僕は好きだ)に載っていた、ラクティスの開発者へのインタビューを読んで愕然とした。一世を風靡したファンカーゴの後継ではないか、という質問に対して「基本的に後継ではなく、まったく新しいコンセプトの車である」の回答したあたりの下りである。

 「時代が変わってしまったんですよね。ファンカーゴが出た時は、8〜9割が1.3リッターのローグレードをお求めになって、セカンドカー的に使われていたんですが、最近は経済状況が変わり、遊びも増えて、ファーストカー的に使う人が増えてきた。奥さんだけでなく、ダンナさんもこれ一台というケースが増えてるんです。

時代が変わってしまったんですよね。ファンカーゴが出た時は、8〜9割が1.3リッターのローグレードをお求めになって、セカンドカー的に使われていたんですが、最近は経済状況が変わり、遊びも増えて、ファーストカー的に使う人が増えてきた。奥さんだけでなく、ダンナさんもこれ一台というケースが増えてるんです。

 大メーカーが綿密なマーケティングをした結果、大衆は2台車を持つ経済的な余裕がない、という判断を下したのである。狂いきって矯正中の僕の経済観念ではあまり実感がないが、周りを見回すと、確かに同年代の人たちは車にそこまでお金をかける余裕がないのかもしれない。大きなステータスシンボルの車に使い勝手の良い小さな車という時代から、小さすぎることはなく恥ずかしくない程度にちょっと高級な1台という時代に変わってしまった。半面、スーパーカーのような車の市場は広がっているのだから、富めるものとそうでないものとの差が広がりつつあるんだろう。

 ロードスターという車もこうした社会状況とは無縁ではいられない。フルモデルチェンジでメーンターゲットに狙った層は、もう少しアッパー寄りになっちゃったんじゃなかろうか。

11月6日

 お昼にある人たちと約束があったので、菊まつりが開かれている曼陀羅寺へ。庫裏で名物のたけのこご飯をいただいて、「仕事があるから」とすぐ抜けるつもりだったのだが、「車で移動する」という。ちょっと離れたお店に席が設けてあったのだ。

 「今日は仕事なので…」などと断ろうものなら、翌日には江南市中に悪名がとどろいてしまうような面々であったので、おとなしく従う。ちょこっと仕事だけ片付けに抜けさせてもらって、あとは腹を決めて勧められるままに酒を飲む。真昼間から、しかも営業時間中に飲む酒はなんだかちょっと後ろ暗い。んが、「これも仕事です」と強弁できるところが僕の仕事のやくざなところである。

11月5日

 ロードスターを運転している夢を連続して見た。今日の夢の中ではなぜか、通っていた小学校の近くの坂道を全速力で爽快に上っていくところだった。ところが、エンジンが6000回転ぐらいまでで頭打ちになり、「ノーマルマフラーじゃ吹けないな」などと考えながらシフトアップしていた気がするから、なんだか妙にリアルな夢だ。

 どうも、またロードスターに乗りたい虫がうずうずしてきたようである。

 んが、乗るには車検を通さないといけない。なんとなく気ぜわしくて時間がなかなかとれないし、なにより先立つものがない。

 そして近づいているのが任意保険の支払期日だ。乗れない車にお金だけ取られ続けるのはばかばかしい。とりあえず、一時抹消するのか車検を通すのか、選択を迫られている。