月: 2005年9月

9月30日

 自宅1階の仕事場に置いてあるデスクトップパソコンの調子がおかしい。1階で仕事することは少ないし、仕事に使うパソコンじゃないからなくても困らないのだが、音楽をかけたり、CDを焼いたりできない。なにより、メイン機が壊れたときのバックアップとしてはきちんと動く状態にしておきたい。

 一番調子が悪いのはディスプレー。11年前にPC9821As2と一緒に買った飯山電機のMF-8615だ。それまでPC8801MA用に買ったNEC
PC-KD855の14インチモニターしか知らなかった。ドットピッチ0.41mmだとか0.39mmだとかいうのがモニターの美しさの指標だったような気がする。それまで640×200とか640×400ドット、512色中16色の世界しか知らなかったのに、Windows3.1で突然1024×764、256色の世界が映し出されて感動したものだ。

 ところが、11年の使用でフォーカスが甘くなってきて、さらに時代はブラウン管から液晶ディスプレーの時代に移行、どうひいき目に見てもきれいな画面とは言えなくなった。さらに悪いことに、長年の酷使により、パソコンに接続する側のコネクターの根元が断線。突然画面が真っ赤になったり、真っ黄色になったりする。

 多くのディスプレーはケーブルが付け替えできるようになっているのだが、このモニターは廉価版のためか、本体から直接ケーブルが出ていて、付け替えができない。画面がおかしくなるたびにコネクターの付け根を正常に戻るまでいじって、だましだまし使っていたのである。

 1年ぐらい前にそんな状態にがまんできなくなって、電子部品屋でコネクターの部分だけ買ってきて、自分で配線を半田付けしたら、調子が良くなったのだが、いい加減に半田付けしてあるものだから最近になって再び断線。オリジナルのコネクタ部分を捨てちゃったものだから、配線の仕方も分からなくなった。試しに、本体側を分解してみて、別のケーブルに交換できないかと調べてみるが、見たこともないコネクターが使われていたり、直接本体に半田付けしてある部分もあったりして、自分では修理は不可能とあきらめた。

 仕方なく、画面が真っ黄色状態で使っていた。真っ黄色でもCDを入れれば自動で演奏が始まるからCDプレイヤーとしてなら問題なく使える。が、追い打ちをかけたのがHDDの故障。BIOSが40GBのメインハードディスクを認識しなくなった。認識することもあるのだが、起動の途中に止まってしまったり、起動したと思ったらフリーズしていたりとだんだんおかしくなり、最近では認識すらしない状態。原因を調べようにも、ディスプレーが真っ黄色なので、BIOSの設定画面すらよく見えない。いらいらが募ったので、HDDとディスプレーはあきらめることにして、近くのヤマダ電機に走る。

 なぜか、江南にできたばかりのこのヤマダ電機は、中古品が充実している。ノートパソコンあたりはちょっと高くて買う気はしないのだが、中古の液晶モニターがいくつか置いてあるのである。

 どこかの企業にリースされていたらしいモニター。富士通やIBM製が中心。その中でDELLのモニターがアナログとデジタルの2系統の入力を備えているし、デザイン的にも良さそうである。17000円ちょっと。ハードディスクはメルコとかの箱入りしか置いていない。80GBで1万円ぐらい。80GBもいらない。

 もう少し安いのはないかと、一宮のGOODWILLへ。ここはバルク品が豊富にある。値段表を見てびっくり。80GBでも6500円ぐらい。ちょっと昔のフロッピーディスクドライブの値段だ。40GBでも値段はそれほど変わらないから、SEAGATEの80GBをチョイス。ここにも中古のディスプレーがいくつかあり、値段も1万円前半と安かったが、アナログ入力しかなかったので、DELLのモニターを買うことに決定。合わせて24000円程度。月3万円のお小遣いなので、けっこう厳しい出費。

 同じく中古で売っていたデジタル出力対応のビデオカードを買っていこうかと思ったのだが、アナログでどれくらいの画質で映るのか試してからにしようと思い、帰っておもむろにHDDとディスプレーを接続。BIOSの初期画面が出た瞬間にそのきれいさに感動した。これなら別にデジタルで入力しなくても十分きれい。

 OSなどを入れて使えるようにするまでがまた面倒くさい。んが、モニターが変わってくっきり映るようになっただけで、なにやら別のパソコンみたい。再び愛着がわいてきた。

9月29日

 この前話していた生ごみ処理機ができたんですよ、と、江南のとある中小企業の社長のおっちゃんがいうので見に行くことにした。

 江南市の中小企業でつくる工業振興の集まりがあるのだが、市から補助金をもらっているのに毎年、集まって飲み食いするぐらいしか実績がなかったらしい。ま、行政がつくっている協議会なんて実態はだいたいこんなもので、よくある話である。このおっちゃんが3年前に会長となったとき、こんなことじゃいけないと、みんなで何かものづくりをしようということになった。

 ときは、環境をテーマにした愛・地球博が盛り上がりはじめたころ。江南市はごみ減量57(こーなん)運動という、一人一日57グラムのごみを減らそうという運動をしている。家庭でごみを減らすのにもっとも効果的なのが生ごみ。環境万博も開かれることだし、家庭用の生ごみ処理機を作ろう、という話で決定した。

 ごみ処理場などに視察に行って研究を重ね、バイオ式という方式の生ごみ処理機をつくることにした。微生物の力で生ごみを分解するため、1年半はメンテナンスフリー。機械の構造も簡単で、おっちゃんの工場でも内部の部品は作れるだろうという目算はあったに違いない。

 が、製品にするには、外観も大切。プラスチック製のガワを製作するためには、金型などを作らないといけない。その道のプロも江南市にいるのだが、この人が概算すると、ガワをつくるのに5000万円。しかも、10万個単位で製品を作らないと売りやすい価格にはならないという。

 しょうがないから、とすでに生ごみ処理機を作っている企業からOEMで部品を調達することにした。主要メーカー製のものはほとんどが中国製。それでは意味がないということで、国内メーカーを探し、一日あたりの処理量が1キロほどの少し大型のものを選定。すべての部品を買ったら江南製じゃないからと、生ごみをかき混ぜるステンレス製の部品はおっちゃんの工場で内製することにした。

 と、これだけの話があったのだが「生ごみ処理機をつくってるんですよ」という話を聞いたのが6月ぐらい。一から製品を作るのだからしばらくかかるんだろう、と思っていたら、すでに製品がある、ということで、半信半疑、見に行ったら本当に売れる製品があったのでびっくり。ほとんどOEMながらこのおっちゃんの仕事の速さと情熱に感心したのである。

 高さ40センチぐらいのふたつきバケツ、といった感じ。名前は「エコ」に江南をからめて「エコーナン」なんだと。べたべたで恥ずかしくなるような名前だが、なんとなく頭に残る絶妙なネーミングだ。

 とりあえず販売するための製品を作ったという位置づけで、将来は、すべての部品を地元でつくるのが目標。いまはこのおっちゃんが突っ走って製品を作っちゃった形だが、もし、地元企業の技術を集めて一つの製品ができたら、それはそれはすごいことだと思う。「環境の市」などとうたっているが、かけ声だけで実効性の疑わしいことばかりやっている江南市の、ジマンの一つになることは間違いない。

9月27日

 西春町の築73年のみそ蔵で、日本の芸術家16人と、はるばるドイツからやってきた芸術家17人が集まってなにやら怪しげな交流展を開いていた。芸術家、といっても、美術大学卒業したての若者揃いである。

 都市空間を舞台に作品を展開する、というテーマのためか、作品の内容は変わったものばかり。美術展といえば、絵や彫刻がずらずらと並んでいる雰囲気だが、そんな作品はあまりない。たとえば、、、

 マンション8階の通路に双眼鏡がたくさん置いてある。そこから見える風景の中に「仕掛け人」である作者がどこかにいる。双眼鏡で探してくださいという趣向。ドイツの女性が、西春駅そばのマンションの屋上でひらひらするスカーフを首に巻きながら立っていた。ひらひら具合から伺うに、かなり風が強いらしい。肉眼で見ると、自殺志願者みたいでとっても怖いのだが、双眼鏡でのぞいてびっくり。なんと、作者もこちらを双眼鏡でうかがっているのである。それが作品。

 ドイツの女性芸術家が、日本の女子高校生文化に興味を持った。ドイツの高校生はハイソな学校しか制服はない。が、日本の高校生のほとんどは制服を着ていて、中でも女子高校生は似たような化粧やブームがあって、個性的なようで画一的。そんな違和感を表現しようと、自ら制服に身を包む。そして、なにをしたかと言えば、本物の女子高校生を十数人連れてきて、一列に並ぶ。そして、街中をぞろぞろと同じ仕草で歩く。あるところでは、右手をおでこにあてて遠くを見るような仕草。あるところでは、ぴょんと何かを飛び越える仕草。あるところでは、白線の上をなぞるように歩く。ぞろぞろと10数人が同じようにして、ずんずんと街中を歩く。それが作品。

 ある人の作品。過去に偶然見た雲の形。ちょうど「:(コロン)」の形をしていた。畑に寝そべって空を眺め、それと同じ雲を探す。それが作品。

 日本人の男性がやったのが「明るい夜」というパフォーマンス。駅前の商店街の電灯をなるべく消し、まっくらにして、「明るい夜」という自分で書いた詩を読む。それが作品。

 ドイツ人男性のみそ蔵の高さ2メートルぐらいのみそ樽の中でエレキギターを演奏する、というのはまだわかりやすかった。

 こういうのが今の芸術のはやりなのか、と思ったが、設定したテーマのせいでこんなのが「作品」になったのかもしれない。それでも、人と人とのかかわりに価値を求めるものが多かったことは興味深かった。

 芸術というと、なにやらフツーの人間には縁遠いものに思えてしまう。絵を見ると確かに感動することもあるけれど、現代美術になってくると、どう観賞したら良いか良く分からないものがほとんど。

 芸術そのものに価値があって、芸術を極めるには、なにやら特別な世界や思考の中に身を置き、ストイックに追究していない限り、その価値が分からないし、分かる資格もない。そんな風潮が根強くあった気がする。

 んが、若手芸術家たちがやっていたのは、あくまで観賞する人の存在を前提としていた。というか、人とのかかわりそのものに価値を見いだしていたのが、新鮮だった。

 何よりも、ギャラリーという白壁の空間じゃなくて、みそ蔵という昔から存在していた人間くさい場所にわざわざ出かけていき、地域の人たちとのもめ事も承知で、なんとか交流を成功させようと努力した姿。地域を巻き込んで、そのかかわりの中で芸術を見いだそうとした姿が新しい。 

9月26日

 何となく、コスワースのページを開いたら、来期のV8F1エンジンのベンチテストの様子が映像で紹介されていた。12000回転ぐらいから徐々に回転を上げてゆき、19000回転も楽々越えて、20000回転。ゆっくりと回転を下げていき、9000回転で一定に。

 ロードスターのエンジンなんかは6000回転も回すと壊れそうな音なのだが、F1エンジンは9000回転でアイドリングって感じ。世界が違う。

 それでも17000回転ぐらいから細かな振動がかなり出ている感じだった。こんなエンジンを背負って走る感覚ってどんな感じなんだろう。

9月25日

 愛・地球博が終わった。最初は「目標の1500万人も危ういのではないか」と言われていたが、何とか2200万人入り、ちまたでは成功と言われているらしい。果たして成功なのか。

 当初、愛知万博の想定入場者数は3000万人だった。これでも、1970年の大阪の万博の半分の設定である。んが、やはり無茶だということで1500万人に改められた経緯がある。2200万人入った、と言ったって、つくば博ですら2000万人、大阪花博は2300万人が入っているのだから、この人数だけでは成功とは言い切れない。

 収支も大きな黒字になるらしい。んが、財団法人で運営している以上、利益が成功の目安になることはない。

 環境の先進技術が持ち寄られたが、前進はあったのか。万博が終わったら、再び顧みられなくなって、元の木阿弥にならないか。うかれる前にちゃんと検証していかないと、ただの大型公共事業、大手ゼネコンや広告代理店だけ儲かった、ということになりかねない。

9月24日

 昨夜、帰ってきたのが午後10時すぎ。ちょっと前までなら翌日も元気いっぱいだったのだが、さすがに元気いっぱいというわけにはいかず、仕事の日なのに午前11時半ぐらいまで寝ていた。

 遅くまで寝ていたのがばれなければよい、というかばれても苦しい言い逃れさえすれば何とかなってしまうのが僕の仕事。「いまどこにいるんだ!」と問いつめられようが、「仕事場にいます」と答えられるのが、強制的に仕事場に住まわされる者の特権である。

9月23日

 東京のホテルで宿泊し、朝からランドの方へ行く。平日でシーだった昨日は人込みもあまりなく快適だったのだが、休日のランドは朝からものすごい人。正直、なめていた。時間を追うごとに満員電車のようになっていく。夕方、おみやげ屋に入ったときは、笑うしかないぐらいの人込みだった。

 それでも、頭にくることが万博より少なかったのはなぜだろう。

 万博は、黄土色した警備員が常にほえまくっている。「走らないで」「階段を下りたら右側に向かって歩いて」などと、機械的に大声を上げている警備員のなんと多いことか。半年間だけのイベント、急ごしらえのスタッフだから、マニュアル通り動くことを徹底しているのだろう。そのマニュアルには、「〜させない」と制限することばかりが書かれているらしく「世界から集まった人たちに気持ちよく帰ってもらいましょう」とは一切書かれていないみたい。

 基本的に「〜するな」というのが万博会場。合理的とは思えないような制限をされると、人間腹が立つ。

 特にペットボトルの持ち込み。テロを防ぐ、というのが表向きの理由なんだそうだ。唖然とするしかない。水曜日に行ったとき、持ち込み禁止を忘れていて、会場内で買えないと困るからと、西ゲート近くの自販機でペットボトル飲料をがしがしと3本も買ってしまった。

 あ、そういえば入り口で没収されるんだった、と思い出し、あわててリュックの底に3本並べて上に汗拭きタオルを載せ、その上にデジカメやらポケットに入っていた財布やら、携帯電話やらを放り込んで、たくさん物が入っているように装った。西ゲートの荷物検査場でリュックの口を開けて警備員に中身を見せる。「タオルの下も見せて」と手を伸ばしてきたら、ペットボトル3本450円をあきらめるしかなかったが、そんなこともなく易々と通ることができた。テロを防ぐ、といったって所詮、この程度のチェックしかしていない。

 ディズニーランドでは万博会場を上回る、半端じゃない人口密度だったが、会場スタッフに腹を立てたことはあまりない。基本的には教育が行き届いていた。なにをするにも行列を作らせるのには、閉口したけれど。やっぱりリピーターがあっての経営だから、いかに客を楽しませ、気持ちよく帰ってもらうかに、神経を使っていると思った。「ホスピタリティー」の発想を、良く心得ていると思う。

 万博との基本的な考えの違いを痛感したのが、丸太のいかだに乗って、滝を下る「スプラッシュ・マウンテン」の行列待ちの時。壁にびしょびしょに濡れたキャラクターの絵とともに「濡れたらごめんね」と、注意書きが書いてあった。「ごめんね」という注意書きや「荷物に気を付けて」とさえ言っておけば、濡れたって荷物がどこかへ飛んでいったって笑う人はいても、怒る人などいない。

 確かに万博ではいっさいの事故がないのかもしれないけれど、訪れた人のうち、8割ぐらいは腹を立てて帰っている。この違いはやっぱり「ホスピタリティー」というものがなんたるかを接客に取り入れているかどうかの差じゃないだろうか。「事故さえなく会期末を迎えられれば」「とにかく開催して帳尻だけ合えば良い」。そんなこっすい(名古屋弁。標準語では「けち」「ずるい」)考えが、ディズニーランドに来て余計に見え透いてしまった。

9月22日

 かねてから計画していたディズニーランド行きを実行。8月に政局が混乱して、総選挙という不確定要素があったものの、何とか乗り越えて計画通りに実行ができてホッとひと安心。

 ディズニーランドと言えば、地方では中学校の修学旅行で行く定番だ。んが、なぜか中学の修学旅行先は信州だった。大都会へ行くのが定番だが、正反対。なので、1度もディズニーランドには行ったことがなく、「それなら1度は」と行くことにしたのである。

 1日目はディズニーシー。2日目はディズニーランドという日程。前日には万博に行っているから、まるで人込み好きみたいだ。

 ディズニーシーでは普通にアトラクションを楽しんだ。内容についてはどこにでもありふれた話だから取り立てて書くことはないが、一つだけ気づいたことがある。

 センター・オブ・ジ・アースとレイジングスピリッツというアトラクション。いずれも、コースター系なのだが、過去を思い返してみても、ジェットコースター系に乗った覚えのない僕は、非常に怖い思いをした。

 車で走っていて、Gには慣れているけれど、ブレーキングや加速時の前後Gとコーナリング時の左右Gだけ。上下Gというのは飛行機やジェットコースターに乗らない限り体験できない。上下Gでも上昇Gは飛行機で体験していてなんとなく体が付いていけるが、下降Gというか落ちる感覚はまったく慣れていない。

 センター・オブ・ジ・アースに乗ったとき、どんなアトラクションかまったく知らなかったので、それまでゆっくり動いていた乗り物が突然、急加速して左右にぐねぐねと回った後、突然屋外に飛び出して、がくんとそのまま直滑降のような形で落ち、体が半ば無重力状態の状態に投げ出されたときには死ぬかと思った。

 同じように、レイジングスピリッツで、くるりと宙返りしたときは、すでに夜だったので、左右に振られて上昇して落ちてと次々と変化するGが体を襲い、自分がどんな状況になったのか脳みそが理解できず、全身がこわばってしまった。なめてると首が痛くなるのは間違いない。

 それでも次に乗れば、もう慣れているので怖くないかもしれない。初回限定の恐怖。それが体験できただけでも収穫か。