月: 2003年8月

8月8日

 僕にとったら早朝に名古屋空港に行かねばならなかったので、空港近くの知人の家に泊めてもらうことにして、仕事が終わってから家に戻ってロードスターに乗って向かう。仕事の都合で知人の家に泊めてもらうだけでも厚かましいのに、人の家の冷蔵庫を勝手に開けてビールを取り出し、飲む飲む。お互いにビールをがぶ飲みしながら話をしていたら、話題の流れの中で自然と口論になり、そのままけんかになって、こんな家で寝られるか、と逆切れして家を飛び出し、ロードスターの中で寝てすねていたら、呼びに来てくれたのでしっぽ振って戻ったりして、大変な迷惑をかけた。何本飲んだんだろう。瓶3本に500mlの缶5、6本は開けた気がする。何時に寝たかも覚えていない。

 車で送ってもらって、名古屋空港へ。お世話になる人と待ち合わせて、午前8時発の日本エアシステムの飛行機に乗る。さすがに加速Gでは僕のロードスターは航空機に大幅に負けているらしい。

 あっという間に仙台空港に到着。ヴィッツを借りて、向かったのは松島。松尾芭蕉作といわれているきわめて単純な俳句の舞台であり、瑞巌寺だのに人が群がっていた。松島町、鳴瀬町、矢本町、南郷町、河南町。そう、今回の3回も強く揺れた地震の被災地である。ぐるぐる回って、あちこちを見回った。

 屋根の瓦が落ち、ブロック塀が崩れる。干拓地では道路が波打ち、下水管敷設で埋め戻した場所は、大きく陥没したらしく、砂利が敷いてあって走りにくかった。

 松島周辺は、柔らかそうな岩盤と、沈降と隆起を繰り返した地形らしく、まさしく松島のような景観が陸の上にもあって、そんながけが崩れて巨大な落石が田んぼに突き刺さっていたりした。ある家は石切場だった裏山が崩れて家にあたって大きく壊れたところも。これでよく地震の死者がいなかったな、と思うぐらいなかなかひどい状況であった。家に岩が突き刺さった家では、たまたま普段はそこの部屋で寝ている人が友人の家に行っていたので難を逃れていたなど、間一髪の出来事はたくさんあった。死者がいなかったのは奇跡的かもしれない。

 狭い範囲によくもまあこんなに市町村があるのかと感心するぐらい密集していた。被害が出ているのが、複数の町村にまたがっているので、かなり広域に被害を与えたのだろう、と思っていたのだが、町村が多いだけであって、建物が全壊するといった本当の被災場所は、半径4キロ以内ぐらいの狭い範囲である。

 明日にどうやら、台風が来てしまうらしい。屋根はまだかわらが落ちたままであり、青いビニールシートでなんとか防水している程度、台風の風雨の強さによっては、雨漏りが大変そう。地震と季節が早い台風とのダブルパンチで本当に気の毒な状態だ。

 ま、一日中土砂降りの中、一日中被災地を巡らなければならない僕も端からは気の毒なのかも知れない。しかも、余震はまだ残っている。今は、松島のホテルにいるのだが、さっきもずずーんと震度3の地震があった。

 無事、帰れるのか?

8月6日

 某寺の和尚に午前8時に呼ばれたので、7時すぎに起床。

 お寺に到着したら、ちょうど朝ご飯の場面だったので、勧められるままにコーヒーとパンをいただいてしまった。晩ご飯と朝ご飯を連続で喰らってしまう、この厚顔。お寺の会話は面白い。「今日は○さん早起きだったわね。3時半には本堂を掃除していたでしょう。私は今日はゆっくりだったわ。3時40分に起きたから」

 用事も忘れて談笑していたら、和尚にお客が来た。僕の用事がまだ終わっていないのだが。本堂へ通される。昨日の小コンサートの機材はすべて片づけられていて、静かな広い本堂の隅に原爆の図第1部「幽霊」が置かれてあった。1950年の製作だから、まだアメリカが日本を統治していた時代。原爆のことを口にすることもはばかられていた時代に、絵でこんなに強烈な「NO」を突きつけるんだから、すごい度胸である。落とされた日の朝に見るとまた違った感慨がわいてくる。

 本堂の軒先で女性とお坊さんが話している。首にむちうちのときに付けるカラーのようなものを付けていたから、てっきり事故の身をおして来ちゃったのかと思ったら、ガンが全身に転移した患者の人だった。一時ひん死の状態になったものの、外科的治療と、抗ガン剤でかなり小さくなっているという。和尚さんとホスピスだの告知だの医者と患者の関係だのの話をしている。昨夜の雷雨が晴れて青空が広がりかけている松本の浅間温泉。せみ時雨。原爆の図。8月6日。なんだか不思議な空間であった。

 で、次の仕事に行かないと行けないから三才山トンネルを抜けて上田に向かう。街中に行ったのだが、けっこう城下町の面影が残っていて、相次ぐ再開発でぼろぼろになってしまった松本よりも風情がある。これをうまく残して散歩できるような街並みにしたら、かなり良い街になるな、と思うのだが、広い道路を造っている最中であった。ここまで交通が便利になってしまうと、「行きづらい」ことが一つのステータスのような気がするのだが。

 本当はそこで仕事は終わり、あとはぼちぼち下道を使って信州の夏を満喫しながら戻れば良かったのだが、別の仕事が発生してしまった。仕方なく、長野の仕事場に行き、しばらくパソコンに向かう。午後7時すぎまで缶詰になってしまい、ぼちぼちと直接帰りたかったのだが、「仕事場に上がってこい」という非情な指令が下る。長野道、中央道、名古屋高速をぶっ飛ばして戻った。10時前に着くぐらいのペースで走っていったが、信州から転がり降りる感じだったので途中、エアコンを使ったにもかかわらず、燃費は10km/L弱ぐらいですんだ。

8月5日

 9時前に起き、ロードスターに乗り込み、長野に向かう。

 久しぶりに県庁に行った。何ヶ月ぶりだろうか。思えば、松本から名古屋に引っ越す直前に長野に出張になって、マージャンをやってすごしていたのだった。もう、引っ越して1年もたつんだなあ、と感慨にふけってしまう。「ガラス張り」の知事室は去年と同じように県庁1階にあったのだが、田中知事はいなくて幸いだった。んが、県民ホール側に知事の等身大のパネルがたててあって、その悪趣味ぶりに唖然としてしまった。
 
 あれこれ仕事をして、また松本に戻る。ホテルに車を起き、浅間温泉の某寺へ。なぜか本堂の、原爆の図の横で森山良子が歌っていた。それで食っている人の歌であり、狭い空間だったこともあってすごい迫力。圧倒されてしまう。

 同じ寺のホールでは、フォトジャーナリストの岡村昭彦の写真が展示されていた。ベトナム戦争の写真が並ぶ。僕もNikonのF90で写真を撮ることもあるけれど、次元が違う。一枚一枚に引きつけられて、足が動かない。とらえられた人たちの表情からは戦争という現象の悲惨さがにじみ出て、息が詰まるような光景ばかりなのだが、すべてをじっくり見てしまった。

 住職にお話を聞き、夕食とビールまでもらって寺を後にした。そのまま、いつものショットバーに行き、1時まで60度のスコッチをがぶ飲みしてホテルで倒れる。

8月4日

 長野と松本で仕事をすることになったので、ロードスターで出勤。どうせだからと、前日から信州入りをすることにし、深夜に愚痴の電話を入れてきた友人Kに酒でもおごってあげて慰めてあげることにした。5時すぎには仕事を切り上げて、まず自宅に戻って着替えなどを持ち、名古屋インターから高速に乗る。

 風船状態になっていた幌は接着剤がしっかり付いているようで、とても良い按配。しかし、小さく開いた穴をふさいだパッチはゴムのりが弱かったらしく、吹き飛んでしまった。穴が復活し、そこから空気が吸いだされてうるさい。幌の中央部は負圧になっているらしく、空気が入るのではなく、吸い出されるのだ。雨が降っても走っていれば雨漏りすることはない。

 どうも、今のエンジンは高速道路が苦手だ。100キロ程度で走っていれば問題がないのだが、それ以上になってくるとつらいのだ。5速4000回転弱ぐらいだと、踏み込んでもあまりトルクが出ない。あ、間違ってもらって困るのは、シングルスロットルに比べたら踏む量は少ないということだ。4つもスロットルがあるのだから、ちょっと踏んだだけでかなりの面積が開いてしまう。アクセル開度20%でけっこうなトルクが出る。だから、ここでいう「踏み込んでも」というのはアクセル開度50%程度ぐらいだと思う。

 とはいえ、踏んだだけリニアにトルクが出ない、というのはかなり気持ちが悪い状態で、僕のエンジンでは3000〜4000回転ぐらいまで吸気管の太さと長さとバルブタイミングの関係からか、ちょっと踏み込むだけですかっという感じでそれ以上トルクが出なくなる。吸気音もすばばばば、という感じでいかにも空気を吸えていない感じになるのだ。ま、シングルスロットルだって、4速とか5速ではアクセルを踏み込んでも、その分トルクが出てくる訳じゃないから、程度問題なのだが。

 この現象が高速道路では非常に気持ちが悪い。だから、少しでも改善しようと、点火時期を進めてみた。マップを久しぶりに眺めてみたら、アクセルを少しだけ踏み込んだ領域が、新エンジンを積み込み、慣らし運転のときにいじったビビッたーをかけて遅らせたままになっていた。ちょちょいと進めると、少しはましになった気がするが、依然として気持ち悪い。なぜか。たぶんアクセルワイヤーのとりまわしが悪くてアクセルが重いことと、踏むとうるさいのでそんなに踏みたくない、ということが原因のような気がする。

 音についてはあきらめるしかないが、アクセルの重さに付いては要改善。今書いている話はすごく微妙な世界の話であって、好き嫌いの問題だから、文章ではなかなか伝わりにくい。

 そのうち松本に到着。友人Kが勤めるホテルにチェックインして、駅近くの居酒屋で飲む。同業他社の友人も来た。あれこれくだらない話をしているうちに、夜はふけて日付変更線近く。もちろんこのまま帰るなんてことはなく、いきつけのショットバーで飲む。午前2時にホテルに戻って何を思ったのかビールを買ったのだが、飲まずにズボンだけ脱いでベッドに倒れこんで意識を失った。

8月2日

 夜中に電話がかかってきた。あまり友人に電話をすることもないから、僕にとってはなかなか珍しいことである。以前、エンジン積み替えを手伝ってもらった松本の友人Kであった。

 電話の向こうの雰囲気では、かなり酔っぱらっているらしい。僕も負けないぐらい寄っていた。缶ビールをこれでもか、というぐらいがぶ飲みしていたのである。

 僕と同業他社だったのだが、ホテルマンに転職したのだ。が、今回のボーナスが異常に少なかったらしい。ようするに、愚痴を言いに電話をしてきたのだ。

 ぐちぐちと愚痴の応酬となってあれこれ話しているうちに、ビールがどんどん進んでいく。たぶん2時間ぐらいうだうだ話していた。

 電話を切って冷蔵庫を覗いたら、最後の一本。1パックと2本が入っていたから、8本目だ。あかん、飲み過ぎた、と思ったら、意識を失う。早朝、兄貴に「布団に入って寝な!」と言われたが、アルコールが体全体を駆けめぐっていたから、動くこともできずそのまま再び意識を失った。何やってるんだろ。

8月1日

 午前2時半ごろ市場に到着。とっても早起きねえ、と思われるかもしれないが、昨日付けの日常から時間が続いているのである。早起きなんじゃなくて、寝ていない、というこの不条理。ま、仕事でミスしたからいけないのだが。

 早い時間の市場はいつもと様子が違った。各産地から品物が運ばれている最中であり、大型トラックが列を作って、そこから荷物を降ろす作業が繰り広げられていた。うず高くトロ箱が積み重ねてあるのだが、水しか入っていないものも多い。人も卸売業者の人ぐらい。

 さすがに、市場関係者の出勤時間に顔を出して、市場のおっちゃんも驚いていた。が、昨日も早朝に顔を出して、その後東京へ行き、また戻ってそのまま早朝の市場に顔を出しているのだから、さすがにどんな無茶をして来ているかを察してくれたらしく、「ま、ここに荷物を置きやぁ」と気遣って、乾いたトロ箱を提供してくれた。

 あっという間に用事を済ませて、帰宅。午前4時半にようやく寝ることができたのだが、再び午前10時には市場へ行かなければならない。本当に、寝るためだけに帰った形である。さすがに、寝不足で地下鉄を使って行くのは体力的にキツイのでロードスターで出かける。

 さすがにここ2、3日の過密労働に嫌気がさして、仕事場にも戻らず、ちゃきちゃきっと仕事をロードスターの中でこなして、遊び回っていた。買い物したり、本屋に行って時間をつぶす。もし、冷房の効いた快適な仕事場に戻ってしまったら、その時点で寝てしまったであろうと思われる。

 ここまで仕事で振り回されるなんて、馬鹿みたい。