11月8日

 100年前の人の人捜しは難航を極めた。が、今日あった出会いは、100年前の人との「縁」を感じざるを得ない。

 江南市の小学校から、日露戦争に従軍した人が戦地からふるさとに向けて送った手紙がわんさか発見された。学校の近所に住む床屋さんが、小学校時代の担任の先生の髪を切っているとき「学校のどこかに、大切な手紙が保管されているはず」と聞いた。たまたまPTAの副会長をしていたから校長先生に手紙があるかどうかを探すようお願いすると、図工準備室の片隅に掛け軸のように表装された手紙がまとめて置かれているのが見つかった。

 墨書でなかなか達筆な字が多い。達筆すぎて僕にはなかなか読めない。歴史好きの床屋さんが、親類のおじいさんに頼んで手紙を読んでもらい、活字に起こした。間違いがないかを郷土史の研究家に校正してもらう徹底ぶりである。こうして、どんなことが書いてあるのかが分かるようになった。

 内容から察するに、当時は、各村ごとに「尚武会」という軍隊の後援組織があって、慰問のために品物やお金、手紙を送っていたらしい。手紙はそのお礼に書かれたものがほとんど。

 ご無沙汰をわびて、元気で暮らしていることとお礼を簡単にしたためた手紙が多い中で、3通だけ戦地での体験を生々しく書いた手紙があった。ぜひ、書いた人の家族を捜して、見せてあげたいと思った。

 名前を元に地元のお年寄りなどをいろいろ当たってみるが、なにせ100年前の人だから「おばあさんが生きていたらどこの人か分かっただろうな」といった返事ばかり。なかなからちがあかない。が、粘り強く捜し続けて、次々と判明していった。

 「旅順の太平洋艦隊を撃退後、久しく敵の姿を見ていないから、バルチック艦隊がやってくるのを楽しみに待っている」という勇ましい内容の手紙の主は、偶然、床屋さんの隣の家に住んでいる人のお父さんだということが分かった。娘さん(といっても80近いが)もお父さんの筆跡を覚えていて、手紙を見せたらすぐに分かったそうである。戦艦朝日に乗って日本海海戦で戦い、無事に帰ってきている。

 「冬の夜に見張りをしていると、寒くて日付が変わるころには体の感覚がなくなり自分の体ではないみたいになってしまう。朝、交代の人が来たから、喜んで勢いよく立ち上がったら、外套が凍って地面に張り付いていたため、破いてしまったこともある」「砲弾は大きなものは二升壷ぐらいあって、飛んでくると付近は十間(18メートルぐらい)四方が荒れ地になる。そんなものが直撃すると、腸が飛び出るやら、体はばらばらになってしまう」と、過酷な冬と戦場の恐ろしさを書いた手紙の主は、地元の議員さんに聞いたらすぐ判明。孫に会うことができた。孫といっても70代だが。晩年楽しんだ俳句をつづった冊子を持ってきてくれて、照らし合わせるとやっぱり筆跡が一致した。

 2つは順調に見つかったのだが、最後の1通はなかなかどこの人か分からなかった。「戦闘中の死傷者の血液の流れ込んだ池の水で米を炊いて食べている」「清国はことし豊作だけども、日露事件で作物はめちゃめちゃになり、家屋が崩れたところもあり現地の人も困っている」と、長文の生々しい内容だから、ぜひとも縁者の人を捜し当てて話を聞きたい。が、地域にもっとも多くいる名字だったから、捜しようがなかった。

 今日、床屋さんから電話があった。聞くと、お墓にいるという。戦没者をまつった一角にある墓石に、その手紙の人の名前が書いてあるという。手紙を書いた後、戦死していたのだ。

 すぐにそのお墓に行き、床屋さんと一緒に墓石に刻まれた字を読んでみる。明治38年3月に亡くなったことが分かる。手紙を書いたのが明治37年11月だから書いてから4カ月後に亡くなったのだ。時期から考えると、日本側25万人、ロシア側29万2300人が激突し、日本側で7万人、ロシア側9万人もの死傷者を出した奉天の会戦で亡くなったんだろう。

 そうか、あの手紙の人は戦争で亡くなっていたんだ、と感慨深く床屋さんと話をしていたら、知らないおじさんが「そのお墓に何か用ですか?」と声をかけてきた。聞けば、このお墓を守っている家の人で、通りかかったら怪しげな男2人がお墓に食いつくようにしているので、けげんに思ってわざわざ車を止めて、声をかけたのだという。理由を説明すると、本家の長男に電話をしてくれた。やってきた長男曰く「どんな縁がある人か知らないが、調べてみよう」。お墓の人の手紙が見つかったことを喜んでくれた。

 聞けば、おじさんがお墓の横を通りかかったのも、たまたまやっていた道路工事を迂回したためだという。100年前の手紙が、図工準備室から見つかったこと自体が、ほとんど奇跡だったのに、ここまで偶然が重なると、「たまたま」というよりは、もはや「縁」を感じる。手紙を書いた人たちが、内容を世に広く知らしめてくれ、とお墓の中から訴えているのかもしれない。

 見ると、お墓に供えられた花が枯れて長い間放置されているようだったので、これまた偶然にも曼陀羅寺の菊まつりでもらって車に積んであった菊の花束をたむけておいた。