ものを書くことについて話をしてくれ、とある行政の人から頼まれたので、仕方なく応じる。日ごろの付き合いがあるので、むげに断ることはできない。
僕より年上ばかりの20人ぐらいに対し、お話をする。中には僕よりも経験のある人もいたのだが、そういう人はいないものと思って話をするしかない。まったく何も知らない素人を相手にした内容でお話をする。とはいっても、こちらも本気でできる限りの厚い内容に。1時間ぐらい話した。マイクがなく、さらに「耳が遠い」という人も含まれていたので、自然に声は大きくなる。1時間しゃべって若干のどが枯れた感じになる。
こういう機会があるといつも実感するのだが、ものを書く能力と、お話をする能力、というのはまったくもって別の能力だということだ。僕は内容がある話はしたかもしれないが、人を引きつける話しぶりではなく、退屈だったかもしれない。半面、能力がある人は、それほど内容がなくても、聴衆に対して、ああ面白かった、と思わせることができるのかもしれない。
2000年に突如長野県に現れた異星人、田中康夫は話す能力には長けていた。知事選挙を戦うミニ集会で、話の内容があったかどうかは疑問が残るが、とにかく聴衆を惹きつける話し方をした。時には「長野県を変えたい」と感極まって泣いて見せた。そこに集ったのが30人なら30人全員が熱心な選挙運動員になるぐらいの迫力があった。そして「勝手連」的な選挙活動が瞬く間に県中に広がり、知事のポストをかっさらっていった。大嫌いな田中康夫だが、その能力だけは認めざるを得ない。
が、その後6年間で長野県民が幸せになったか、といえば、ご覧の通りである。ようやく県民が見抜き、県政が正常化した。もっとも、県民が本気になれば県のトップをすげ替えることができる、という自信を県民に付けたという功労はあるけれど。
とにかく、書く能力と話す能力はまったく別の次元の話。書く仕事をしていると、面白く話せるに違いない、と勘違いされてしまうのだが、まったくもってそんなことないのである。